静まりの時 2021年9月27日(月)
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
(エフェソの信徒への手紙1章4節)
・・・私たちに対する主なる神の永遠の愛が減少することはありません。そして、私たちの魂に対する神の愛が少しも弱まることはないのです。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、381頁f
新共同訳の「私たちを愛して」は、新改訳では5節に「愛をもって」と訳出されています。これは写本の違いで、どの写本を選択するかによって訳文に違いが生まれているということです。選びにおける神さまの愛ということでは、文意はそう変わらないのではないかと思います。
天地創造、すなわち神さまがこの世界のすべてをお造りになられたことの、その「前」に、私たちは選ばれた、といいます。私たちは神さまによって造られたものです。世界とは別に造られたものではなく、また世界の前に造られたものでもありません。創世記には、世界とともに全ての創造物の冠として造られました。ですからこの「天地創造の前」というのは、私も創造されていなかったとき、ということができるでしょう。
つまり私という存在が、存在しない前から、神さまは私を選んでくださった、そうパウロはエフェソの信徒に向かって語るのです。神さまの選びというのは、私が存在する、ということを超えて私に及んでいるというのです。それは私の存在の中に、選ばれるべき客観的な価値があるので選ばれたということでは全くない、ということを明らかにしているのではないでしょうか。私たちは何かを選ぶときに、その商品の価値や美しさを見て、評価して選びます。しかし神さまはそのような対象に対する価値への評価をもって私たちを選ばれたというのではないのです。神さま、私にはこんなくだらない部分があります、こんな足りないところがあります、と告白するならば、神さまは、そんなことごちゃごちゃいうな、私は選んだ、と宣言してくださっているのですね。
ここに神さまの創造の愛が明らかにされています。私たちは神さまによって愛をもって造っていただいたのです。どのような状態でも、またどのような状況の中にあっても生きていていいんですね。
またこの創造における選びの愛に続いて、選びの目的が書かれています。それは「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしよう」という目的です。新改訳では「御前に聖なる、傷のない者にしよう」と訳されています。選ばれたときの人間には傷があり汚れがあるのです。その傷をいやしてくださる、汚れをきよめてくださる、それが神さまの選びの目的である、といいます。傷があっても汚れがあってもほったらかしというのではないのです。どんな傷でも、どんな汚れでも、神さまはいやしきよめてくださいます。ここにまた「選び」の愛があります。
使い捨て文化の中にあるので、どんな製品も故障したり、利用目的が終われば捨ててしまいます。数年前から愛用していたジーパンの膝が破れてしまいました。それで新調したのですが、この古いほうがなかなか捨てられなくて、結局妻に補修してもらって今だはいています。あつい布を縫うミシンがないので、手縫いで補修したことで、なんとも不思議なジーンズになりましたが、愛着がさらに増しました。これとは比べ物になりませんが、神さまは、私たちをきよく傷のない者にしてくださるのです。
ここに神さまの創造のもう一つの愛が明らかにされています。私たちは自分に傷があり汚れがあっても、それであきらめる必要がないのです。開き直る必要もありません。もう駄目だとふさぎ込む必要もありません。どんな中にあっても神さまがきよめてくださるという自分に対する希望をもって生きることができるのです。
選びと創造の愛、選びと目的の愛。私たちがこの二つの愛に生きるようにと、主イエスさまはこの地に来て十字架と復活をなしてくださいました。
昨日は藤本先生のDVD説教による礼拝の最終回。ほんとに素晴らしいメッセージで感謝しました。アーメンという祈りの言葉は人間業ではなく神業なのですね。藤本先生、ありがとうございます。次週からはいよいよ現場復帰で、10時からの礼拝のみですが、説教を開始します。藤本先生のようにはいきませんが、主にあって楽しみです。
礼拝後は臨時の運営役員会が行われ、緊急事態宣言が解除されれば10月3日から礼拝と教会学校礼拝と水曜日の聖書祈り会の再開が決まりました。また感染症対策についても話し合われました。
午後は、オンラインでの団体の世界宣教セミナー。モンゴル宣教師の高橋真一先生をお招きしてのセミナーで、こちらもすごく心温まる、また宣教への思いをあつくされるセミナーでした。感謝です。
夕刻、小雨がやむのを見てウォーキング。東の山の中腹に帯状の雲がたなびいていました。優勝は照ノ富士となりました!