静まりの時 2021年9月11日(土)
あなたには多くの不安があります。しかし、そこからも解放されます。
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主なる神の手から与えられる苦難には、思いやりのある限界があります。C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、358頁f
たとえ虐げられることになっても神さまは見捨てることをなさいません。たとえ打ち倒されることがあっても滅ぼされてしまうことはありません。虐げられる、打ち倒されるということがあっても、信仰者は望みを失ってしまうことから自由にされている、ということでしょう。
自由とは一体なんであるのか。究極的には心に自由ではないかと思います。心は自分自身の手の中にあります。あるはずです。ですから多くの束縛の中にあっても、人間は自由に生きることができるのです。先に行われたパラリンピックを見ても、そのことを教えられるのではないでしょうか。
逆に何不自由のない状況の中にあっても、自分自身が心を縛っているということも私たちは経験するでしょう。神さまの愛の中に自分自身を見つめていくところに、自分が自分を縛ることから解放される道がひらかれるのだと思います。鍵は神さまの愛です。
「9.11」から今日で20年が経ちます。20年前、当時中学生だった娘のひとりが、教育委員会のプログラムで米国に短期交換学生として行くことになってしましたが、この出来事によってそれがなくなってしまったということがありました。娘はもとより私たち夫婦も大変残念だったのですが、娘の海外への思いは消え去ることなくむしろ強くなったのでしょうか。その後、国債飢餓対策の短期ボランティアや青年海外協力隊員として、世界の国に出かけていく事となりました。その都度心配はするのですが、さまざまな文化の人たちと生きること、その風を家庭に吹かせてくれたことは、大変貴重なことだったと思います。
アフガニスタンから米軍が撤退して、世界にはより危険が増したと報道されるのですが、昨日の朝日新聞のブレディみかこさんの書かれていた記事に登場する女性のことばのように、たとえわずかの時間でも女性たちの人権が守られたことには大きな意味があったのだと思います。
そもそもテロをなぜ起こすのか。私たちは大きな軍事力を持つことが戦争を起こすことへの抑止力となると考えています。では20年前にテロを起こした人たちは米国の軍事力の大きさを知らなかったのでしょうか。私は知らなかったわけではなく、むしろ知っていたからこそテロという方法でしか自分たちの怒りを表現することができなかったということではないかと思ったりします。テロそのものはもちろんゆるされるべきことではありません。卑劣な戦争行為です。しかしそれを力でねじ伏せようとして、果たして本当の平和を築くことができるのか。さまざまな価値観を持つお互いを受け入れ合いながら築き上げていく国際社会となるのか、少なからず疑問を持つのは私だけでしょうか。今回与党の総裁選に出馬する中のひとりが軍事費の予算をあげると言っておられました・・・。
人を殺してまでも守らなければならない正義というものはありません。誰かを傷つけてまでも成り立たせなければならないと思い込んでいる正義感は、もはや正義ではないことを忘れてはいけません。少なくとも、そのような間違った正義感に生きるということは、イエスさまの生き方ではなく、イエスさまが厳しく追及されたパリサイ人の生き方であることを忘れないようにしましょう。
昨日は少し気温が高くなったせいか、また一昨日に少し運動をしすぎたせいか、昨日は少ししんどい時間がありましたが、今朝は元気に朝を迎えました。NHK・FMでは土曜日の朝6時から合唱の番組が放送されています。今朝は、ミサ曲ということでジョスカン・デ・プレを特集しています。ジョスカン・デ・プレは1枚だけCDを持っていますが、こころが透明にされるような音楽です。
今日は土曜日、備えの日です。明日の主の日に備えて、幾人かの方が準備をしてくださいます。感謝します。
「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(2コリント4・9)