永遠の幸いを見いだす

静まりの時 2021年9月12日(日)

主キリストを信頼しようではありませんか。ただ主イエス・キリストだけを信頼しようではありませんか。そのとき、私たちは永遠の幸いを見いだすのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、359頁ff

どのような事態の中にあっても落胆しない生き方がある、と聖書は語ります。それは過ぎ去ってしまう「見えるもの」ではなく、永遠に存続する「見えないもの」に目を注ぐことによって生まれる生き方である、といいます。そして永遠に存続する見えないものとして、ここに日々新たにされていく「内なる人」の存在を語ります。
私たち人間には「外なる人」と「内なる人」があるというのです。外なる人、すなわち私の見えるところは衰えていくのですが、その内なる人、すなわち見えないものは、永遠に存続すると。これは霊魂不滅ということをいっているのではなく、永遠なるお方と結びついたいのちは、その永遠なるお方の無限の愛によって、永遠とされる、ということでしょう。
この永遠である「見えないもの」に常に目を留める者。それがキリスト者です。キリスト者は落胆することから自由にされているのです。

今日は主の日。礼拝の日です。緊急事態宣言下にあってすべての集いはお休み。今日も役員の方と有志の奉仕者によって礼拝がささげられます。礼拝の様子はオンラインで配信されます。それぞれの場が豊かな礼拝の場所となりますように祈ります。

退院後5回目の日曜日を迎えます。励ましの言葉をいろいろといただきながら日々前進しています。あらためて九死に一生を得たのだと振り返っています。まだ私にも用事があるということでしょうか。そうであるならば、生きていくことに主の御心があるならば、そして健康で生きていくのではなく、病を得て生きていくことに主の御心があるならば、ここまで、と主が言われるまで生きていくことがよいことですね。「こころ暗く 涙にふれたるとき いずくよりか声あり・・・」。感謝します。
妻がテレビの横においている渡辺和子シスターの言葉に、「『生きている』と『生きていく』は大きく違う」~「ただ『生きている』だけでなく、『生きていく』ことができる自分に気づきましょう。傷があるままの自分を受け容れてくれる人々の愛に支えられて生きていくのです」とありました。この「傷」は心の傷を指しているのだと思いますが、私においては文字通り身体の傷も重なります。慢性心不全を受け容れて生きていく、それができる自分に気づく、そのような人々の愛に支えられている自分である、ことに気づいていたいと思います。

薬の関係で空咳が出ます。それとともに少し胸に圧迫を感じるのです。大したことではなく深呼吸をすると大丈夫なのですが、狭心症の影響や心筋梗塞の再発を心配し出すと不安が襲ってきます。昨日も七千歩以上を歩くことができたので、おそらく心配はないはずですが、人間は弱いものです。
食事の管理を妻まかせにするばかりではなく、自分でも考えてみようと思い立ち、このところ夕食に一品を料理するようになりました。昨日は「あじのアクアパッツァ」などというものを造りましたが、一品は逸品になったでしょうか。あじの下処理の仕方とアクアパッツァという言葉をとりあえず学びました。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4・16)