静まりの時 2021年9月13日(月)
あなたは長く苦しむ必要はありません。栄光が間もなく示されるからです。
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人間の目には不成功に見えても、あなたの多くの働きに対して主が「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25・21)と、ことばをかけてくださる日が必ず来るからです。C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、361頁f
私たちに与えられる艱難(患難)は、一時的なもの、すなわち永遠ではないものであると聖書は語ります。またそれは「軽い」とも語ります。艱難の中にある者にとっては、それが「軽い」とはとても思えないことですし、誰かから「軽い」などといわれたなら反論したくなるものです。しかし自分が今出遭っている艱難を「軽い」と思うことができるとすれば、そこには脱出の道が見えているということであり、希望に生き始めているということでしょうから、やはり「軽い」と思えるということには大切なことがあると思います。
「栄光」という言葉ですが、これはたびたびお分かちしたかと思いますが、旧約聖書の書かれたヘブル語では「重い」という意味を持っています。「重い」すなわち存在感があるということです。神さまの栄光がある、ということは、神さまの存在感がある、確かに神さまが生きてご存在下さり、お働きくださっている。そのことが確かである、ということです。
今朝の聖句(下記)は、艱難はあるけれどもやがて神さまの栄光が現される、というのではなく、艱難そのものが神さまの栄光をもたらす、という意味です。艱難を軽いととらえ、そこにも意味がある、決して無駄なものではないと受け止めること。そしてその艱難よりもはるかに大きな神さまの栄光を、その艱難がもたらしてくれること、を「信じる」ということでしょう。単なる心の持ち方というのではなく、十字架に架かり甦ってくださったお方への信仰、信頼によって生まれる豊かな生き方です。
昨日の主の日も感謝な一日でした。久しぶりに運営役員会にも出席しました。主の御心がなされるようにとの祈りをもって始まるのですが、教会は常に「合議」、あつまって相談することを大切にしてきました。教会の歴史を見ると「公会議」として、重要案件を話し合い、そこに主の御心を発見してきました。ここにさまざまな宗教との違いを発見します。教祖的な存在や、カリスマをもった存在が「鶴の一声」のように発信し、それがそのまま全体の意見となっていくということが、他の宗教には多いように思います。しかしキリスト教だけは、合議を大切にし、合意形成に努力するのです。「私は神さまに導かれました」ということが如何に罪人でしかない人間の独善を助長し、集団に混乱を招き、社会に悪影響を与えてきたかは、オウム真理教を挙げるまでもなく、近代社会は学んできました。
緊急事態宣言継続を受けて、教会も現在の感染症対策を継続します。また人事のことも一つの方向性が確認されました。片肺の複葉機であるにもかかわらず奉仕の継続を願ってくださいました。ありがたいことです。
昨日は、夕食にカレー味のチキンソテーなるものにチャレンジしてみました。極度の減塩と栄養バランスを考えたオリジナルレシピですが、かなり味の薄い、あるいはないと言ってもよいのかもしれないものができ、家人はみなそれぞれに醤油等をさして食していました。私にはよかったのですが、道はまだまだ遠いです。
「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(2コリント4・17)