うぬぼれ、という思いを退けようではないか

静まりの時 2021年9月10日(金)

少しでも自分の力に頼ろうとするかぎり、完全に満ち足りた方、主なる神を信頼することは決してできません。うぬぼれの心が少しでも残っていると、私たちは自分自身の力に頼ってしまします。
・・・
私は「うぬぼれ、という思いを退けようではないか」と、自分に語りかけることにしています。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、357頁f

「うぬぼれ」という言葉は、漢字で書くと「自惚れ」となり、自分自身に惚れる、という意味です。「実際の能力・姿以上に自分が優れているとおごり高ぶる」ということで、そういう人とはなかなか付き合いにくいので周りにいる人は少しずつ距離をとるようになります。しかし恐らく本人自身が一番生きづらさを感じているのだと思います。人間は、ありのままの自分に生きるのが一番居心地がよいのですから、変に背伸びしている状態は、しんどいですよね。
信仰に生きるということは、うぬぼれない、ということであり、自分自身に生きることができる、ということでしょう。おごり高ぶることから自由になるということでしょう。
それはまず神さまのまえに、ひざまずくこと、から始まります。また神さまの前にひざまずくことによって、うぬぼれから守られる、そして本当に自由に生きる者と造り変えられるのです。礼拝に生きる、ということでもあると思います。今日も、等身大の自分に生きる楽しさを確かにしたいと思います。

入院中、痛みから解放されると暇になりますが、テレビなど見る気もしなくて、窓から望む夏空を眺めているだけでは、なかなか時間が経たないし・・・。それで結局、読書ということになりました。読みたいと思って購入したのですが、なかなか読めなかった本が幾冊もあります。今回その中の一つ、岩下壮一著、『信仰の遺産』を、妻に差し入れてもらって読むことができました。ずいぶん昔に書かれた書物ですが、しばらく前に、注解=山本芳久、解説=稲垣良典を加えて、岩波文庫から発刊されています。この中に以下のような文章がありました。

「真の信仰は敬虔なしには存在し得ない。神の権威故に信ずるのであって、ドグマの知的内容の自明性に基いて信ずるのではないから、もしも神の存在を哲学的論証の故に承認する者あらば、彼は之を認識したのであって信仰したのではない」(岩下壮一、「ドグマと理性及び道徳との関係」、『信仰の遺産』、185頁)

私が神さまを認識した、というのは、私という存在を神さまの存在よりも優先させていますね。それに対して、敬虔によって神さまを信じるということは、神さまの前にひざまずくことであって、そこでは自分の存在は神さまよりも下に置くことでしょう。これは「うぬぼれ」ない信仰に生きるということではないか、と思います。
もちろん神さまを認識するということは、それはそれで大切なことなのです。神さまは私たちに「知解」を求めておられます。神さまは論理的なお方です。何でもできる神さまですが、角の四つある三角形は描き表すことができないでしょう。神さまは論理や秩序を大切になさるお方なのです。しかし自分の知解によって神さまを知ろうとするということには大きな落とし穴があって、自分の「賢さ」を信仰の土台としてしまう誘惑があるのです。それこそ創世記3章で人類が受けた誘惑であり、人類は見事にその誘惑に敗れました。全ての人はこの罪の性質を引きずっていますので、どうしても自分の「賢さ」を信仰の土台としていまします。これが鮮明となるのは、隣人との関係においてでしょう。罪人である人間は巧妙で、まさか神さまよりも自分が賢いなどとは表現しません。しかしその思いが隣人との関係においてにじみ出てしまうのです。礼拝の持ち方、奉仕のしかた、交わりでの言動ににじみ出てしまうのです。自分の力では、その罪に打ち勝つことは不可能ですが、ただそういう自分であるということだけはわきまえ知っていたいと思います。

あれだけ痛んでいたワクチン接種の箇所は、触ると少し痛みを感じる程度となりました。8月だったでしょうか。退院後の礼拝で、奏楽にご奉仕くださった姉妹が、ワクチン接種の後の痛みの中ご奉仕くださいました。どんなに大変だったろうか、と遅ればせながら思いました。ありがとうございました。

「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」(2コリント3・5)