大変な誤解

静まりの時 2021年9月2日(木)

祝福に満ちた神の約束のことばを常に会衆に語っている者は決して落胆することなどなく、悩むこともないと思われているかもしれません。そう考えるあなたは大変な誤解をしています。
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どんな計画も、それが自分の考案であり、自分の名誉を求めた結果によるものと感じるときには、その計画が間違いなく失敗することに気づかされます。しかし、神がその計画を私に無理に押しつけ、神の力によって動かされ、自分の力や、感情や意志によるものでないことがはっきりしている場合、どうして神が私を見捨てることなどあるでしょうか。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、345頁ff

説教者も一人の罪びとであり、傷つきやすく脆い人間である、とスポルジョンは語ります。毎週同じ会衆に向かって、その罪を指摘し、神さまの愛を語るということは、人間的に考えるならば、かなり精神力のいることです。神さまのお力によってでなければ成し得ないことです。そして会衆の祈りがなければ成り立たないことです。祈りどころか逆に会衆から反感を受けている、という状況であれば、もはやそのストレスは並大抵のことではないでしょう。かつて神学校で共に学んだ方々の中で何人もが伝道者としての最前線から退くことになったことを思うと、この役割の苛酷さを思い知らされます。カウンセラーの藤掛先生も、日本で最もストレスのある仕事として、天皇と牧師をあげておられました。
ですから、この役割は「主イエスさまへの信仰」がなければ不可能なのです。
ひところ、教会成長ということのなかで奉仕者がビジョンを持つことを声高に言われたことがありました。確かにそのようなことも必要であると思います。しかしそのどこかに「自分の名誉を求めること」が潜んでいないとは言えないなと感じたことがありました。一時的には、華々しく見える活動も、そこにイエスさまの十字架と復活が確かに見えているだろうか、と。
イエスさまはペテロに言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ21・18)と。
伝道者は、このような人生を歩む者である、ということであり、そこにこそ主が見捨てずにともにいてくださることを確信する道があるということでしょう。決して伝道者だけではなく、キリスト者はすべてそうなのだと思います。

おととい自転車で郵便局や銀行を、少し力をいれて回ったことからか、昨日は少々疲れていました。それで夕刻に少し歩くだけにしました。今朝は元気に朝を迎えています。血圧も100を越えていました。
妻が新型コロナワクチンの2回目の接種をしたのですが、それが痛んで昨日はしんどくしていました。それで予定をひとつキャンセルすることになりました。
夜に雨が降り、涼しい朝を迎えています。秋の風が吹いています。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8・31)