信仰に生きるということは、このような主イエスの言葉を、自分に与えられている喜びの言葉、生きる喜びを与えてくださる言葉として読むことができるかどうか、そのことにかかっていると言いうると思います。
加藤常昭、『マタイの福音書 第1巻』、380頁
聖書個所:マタイ5章17~20節
信仰に生きるということは、神さまを信じて生きるということですが、漠然と神さまを信じて生きるというと、神さまの中身は違うのですが、様々な宗教、新宗教も同じことを言います。ではキリスト教会はどういうところに特徴があるのが、キリスト教の特異性はどこになるのかと考えますと、この「聖書の言葉」に聞くというところにあります。逆に言いますと、神さまを信じているといくら言われても、聖書の言葉に学び、聞き従うということがないならば、それはキリスト教信仰ではないといわざるを得ません。ですからキリスト教会のあらゆる集いで聖書の言葉を読みます。また聖書の言葉を学びます。
そこで聖書の言葉をどのように読み学ぶのか。加藤先生は「自分に与えられている喜びの言葉」「生きる喜びを与えてくださる言葉」として読むのだ、といわれます。
聖書の言葉には、単純に喜びの言葉として読むことのできるものもありますが、そうではなく苦しみの言葉、自分にとっては心痛い言葉として響いてくるものもあります。しかしどのような言葉であっても、それを喜びの言葉、生きる喜びを与える言葉として読むのです。それがキリスト教信仰に生きるということなのです。
私たちはそのように日々聖書を読んでいるでしょうか。日曜日の礼拝で語られる聖書の言葉を、週日の集会で語られる聖書の言葉を、そのように聞きとっているでしょうか。もしそうでないならば、私たちはキリスト者ではありません。キリスト教信仰に生きているとはいえないのです。
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