私たちが悪い素材だということを神がよく知っていられるから、神は、私たちを救うために別の所を打たれた。それは、何という打撃だろう! 神は、何と激しく槌を振るわれたことだろう! 神はその御子を打たれた。神は御子を、聖金曜日に、十字架につけられた。あそこで神は、私の中から神の似姿を形造られた。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、217頁
ヘブル人への手紙12章14節
2012年06月26日(火)
一方的な神さまのお働きの中に救っていただきました。この救いについては、人間の介入は一切ないと聖書は語ります。しかし聖化についてはどこか人間の努力や信仰姿勢が問われているように思っているところがあります。
このリュティの言葉は、聖化においても、いっさい人間の介入はない、ただ主の十字架の前に可能であることを語っているようです。なかなか難しい言葉ですが、私はここに真理があるように思います。
聖化とか聖潔とか語られるところに、どうも人間的な肉々とした印象を受けるので・・・。
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