月: 2026年7月

  • 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します

    静まりの時

    • テーマ:奉仕
    • 聖書箇所:使徒6・1~7
    • 日付:2026年07月04日(土)

    1 そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。

    生まれて間もない初代教会のなかに問題が起こりました。神学的な問題というよりも、いわゆる飲み食いの問題です。

    キリスト教会はそれまでのユダヤ教の文化を引き継ぎ、「やもめたち」、すなわち伴侶を失った人たちへの食事の配給を行いました。社会福祉の整っていな時代、人びとの福祉は教会が先進的に担ったのです。日本でも戦後社会福祉が整っていきましたが、戦前はキリスト教会をはじめ数々の宗教が担っていたといわれます。

    しかし活動が前進し、その規模が拡大すると問題も起こってきます。問題が起こることを問題視する人もいますが、問題が起こるということは、生きている、ということです。人間の身体でいえば病気になるのは生きている証拠で、死んでしまっては病気にもなりません。

    教会は起こった問題に誠実に対処します。「弟子たち全員」を呼び集めました。執行部など一部で解決しようとしません。信徒総会を開催するのです。

    2 そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。
    3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、
    4 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」
    5 この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、
    6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。

    12使徒たちがやったことは、話し合いというよりも、教会の基本を確認したうえでの宣言、あるいは指導のようなことでした。

    彼らは確認しました。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」。今日の教会においてこの言葉が指導者たちから語られたとすれば、はたして教会は受け入れるでしょうか。受け入れられるか否か。それが真の教会か否か、あるいは、その教会が真の成長を遂げるか否かの分かれ道ではないか、と思います。伝道者は確認をもってこの言葉を語らなければならないと思います。

    祈りとみことばに専念するからといって問題をほったらかしにするのかというとそうではありません。彼らはできる人にゆだねました。この、ゆだねる、ということが指導者の腕の見せ所です。名プレイヤー、名監督にあらす、だったでしょうか、できる人ほどゆだねるのが難しいのです。自分の力が発揮されることを優先的に考えてしまうので人を育てることができません。12使徒たちは、名プレイヤーではなかったかもしれませんが、名監督でした。

    ではどのような人にゆだねるのか。出来る人を選ぶ、ということも簡単ではありません。彼らは「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」を、7人選びなさい、といいました。給食の配給の問題ですから、その采配にたけている人を選ぶことを考えがちですが、彼らは、御霊と知恵に満ちた人、そして評判の良い人たち、を選ぶように指導しました。能力ではなく、人、です。キリスト教会では、能力ではなく人となり、で奉仕者を選択します。どんなに能力があっても、人、がいまいちならば選びません。逆に、能力はいまいちであっても、御霊と知恵に満ちた人を選びます。

    7人を選びました。7は完全数です。それは、選ばれた人たちに神さまの権威を与えるためだと思います。また彼らに、手を置く、すなわち按手を行いました。彼らの奉仕が、神さまのみからだの行為、神さまご自身の御業であることを明らかにします。

    「この提案を一同はみな喜んで受け入れた」。信徒総会での役員会からの提案は全会一致で可決されました。教会は全会一致を目指して議論を尽くさなければなりません。ひとりでも賛同できない人がいれば、まだ祈りが足りないということです。それが正しい民主主義だと思います。多数決は多数派の暴力になる場合があるのではないかと思います。

    こうして選ばれた7人は、給仕に終始していたわけではないことは明らかです。ステパノはみことばを語る者と用いられていきました。そして教会で最初の殉教者となってしまいました。