静まりの時
- テーマ:奉仕
- 聖書箇所:ヨハネ12・23~26
- 日付:2026年07月02日(木)
23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
新約聖書はマタイの福音書に始まりヨハネの黙示録に終わる27巻からなる書物です。最初に四つの福音書があり、続いて使徒行伝、パウロの手紙、ヘブル書、使徒たちの手紙、そしてヨハネの黙示録です。西方のキリスト教ではこの順序ですが、東方では使徒の手紙がパウロの手紙よりも先に来ています。いずれにせよ、イエスさまの生涯、教会の始まり、使徒たちの手紙、そして黙示、という順序ですが、これは執筆年とは違います。最初に書かれたのは、手紙類で、当初は聖書として書かれたものではないようです。それが礼拝で回し読みされるようになり、結集(けつじゅう)に至りました。イエスさまの生き証人たちが天に帰り少なくなると、イエスさまの語られたことば、なされたことを記憶し次の世代に伝えるために福音書が書かれました。教会の始まりが人間的なものではなく、神さまのご計画とお働きによるものであることが記録されるために使徒の働きが書かれました。迫害の時代に希望をもって生きるようにと、励ましの言葉として黙示録が書かれました。このような中で、異端が出てくると、キリスト教信仰を明らかにする必要が生まれ、聖書の結集となりました。聖書が教会を、そしてキリスト教信仰を生み出したのではなく、すでに生まれていたキリスト者たちが、すでに生まれていた教会生活を生きる中で、聖書は書かれました。(聖書信仰を大切にしようとして、その教会で生まれた聖書をもって教会を否定するとすれば如何にナンセンスなことかは明らかです。)
私たちが信仰の告白として礼拝において告白している使徒信条は、このキリスト教信仰とはいったいなんであるのか、を明らかにしたものです。その中に、「処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という告白があります。注目しなければならないことは、イエスさまのご生涯で語られた倫理道徳的なことばや、奇跡や愛の行動をすべて除いている、ということです。
それには二つの意味があります。一つは、何よりも大切なことが十字架であったということ、そしてもう一つは、イエスさまのご生涯がこの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」ということばに集約されている、ということです。
イエスさまの数々の行いや奇跡、語られたことばは信じるけれども十字架は信じていない、というならばキリスト者ではありません。逆に奇跡は信じられない、イエスさまの語られたことばは信じない、としても(信じないでよいということではありませんが)、もしイエスさまの十字架が私の罪のためであったと信じるならば、キリスト者なのです。使徒信条は、そのようにキリスト教信仰を明らかにしています。
十字架が私の罪のためであったと、信じる、ということは、十字架を単に歴史的事実として信じるというのではありません。私の信仰的真実として信じる、ということです。戦国時代に織田信長が安土城を築城したということを信じる、ということは、歴史的事実を信じていることですが、それとイエスさまの十字架が二千年まえにあった、ということを信じるというのとはそう変わりません。その信じるでは私の人生が変わることはありません。キリスト教はそのような、信じる、を宣べ伝えているのではありません。そのような信じるでは、罪の赦し、永遠のいのちをいただくことにはなりません。今を生きる私の罪のために、神の子がいのちを献げてくださった、ということを、時も場所も超えて、私のためであった、と信じること。それがキリスト教会が宣べ伝えてきた信仰であり、それはこれからも変わることがありません。
イエスさまの語られた平和と愛の信仰、と、使徒たちが宣べ伝えた信仰、とは違うものであるということが主張された時代があったようですが、福音書を読むとあちらこちらに、十字架にかかることがイエスさまの受肉の目的であったことが書かれています。今朝の個所もその一つです。キリスト教会は首尾一貫して、神による贖罪信仰を語ります。
イエスさまが語られた、栄光、とは、十字架のことなのです。栄光=十字架。これを受け入れた人のことをキリスト者といいます。