静まりの時
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- 日付:2026年06月05日(金)
1 見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって ともに生きることは。
2 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。
それは ひげに アロンのひげに流れて
衣の端にまで流れ滴る。
3 それはまた ヘルモンから
シオンの山々に降りる露のようだ。
主がそこに
とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
1節の「ともに生きる」は、新共同訳では「共に座っている」、共同訳2018では「共に住む」。3節の「とこしえのいのちの祝福を命じられた」は、新共同訳では「布告された」、共同訳2018では「定められた」。
兄弟姉妹が、一所にいる。住んでいる。ともに生きているとはそういうことです。たとえ場所は離れていても心が通じ合うということもあると思いますが、やはり一所にいること、共に住むことによって、一緒に生きる実感を持つことができるのではないかと思います。
ともに生きるところに、主は「とこしえのいのちの祝福を命じられた」。主はともに生きる、ということ自体を、祝福の基とされました。ともに生きる、ということは、何かの目的のために便利だからということではなく、ともに生きるということそのものの価値を明らかにしてくださったのです。
教会の交わりは、主の祝福に満ちています。ただ「ともにいる」、ということ自体に価値があります。薪が一本では力が足りないけれども、多く集まれば燃やされる、というようなことではなく、たとえ2,3人であっても、そこに主がともにいてくださいます。主がともにいてくださるので、そこに祝福があります。主がともにいてくださる交わりなので、人数に関わりなく「ともにいる」ということに価値があります。何もできなくてもよいのです。ただ、ともにいる、という価値が明らかになるところが教会です。