もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます

静まりの時

  • テーマ:聖霊に満たされる
  • 聖書箇所:ローマ8・12~17
  • 日付:2026年05月25日(月)

13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

肉に従って生きる、とは、この場合、神さまを抜きにして生きようとする自己中心的な思いに従って生きることだと思います。ガラテヤ書5章19章以下には「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」と書かれています。

それに対して、御霊によってからだの行いを殺す、とは、肉に従って生きることをしない、神さまを中心にして生きようとすることです。そうするならば、私たちは生きるのです。

昨日めぐみ教会ではマルコの6章1~6節を礼拝のお言葉として学びました。イエスさまがご自分の郷里で伝道なさったときのことが記されています。そこでは郷里の人びとの不信仰のためにイエスさまは何ひとつ御業を行うことができなかった、と書かれていました。何ひとつできないとはいうものの何人かの癒しは行われたのですから、私たちはそれには驚かなければならないと思います。しかしそれでも聖書はわざわざ、郷里の人びとの不信仰によって主は御業を行うことができなかった、と語るのです。

主は全知全能のお方ですから、極端に言えば、どんなに不信仰であっても御業を行うことは可能であるはずです。しかし主はその自らの全能を制限しておられる。人間の信仰をお求めになっておられる。信仰に答える形で、ことを行なおうと決意なさっておられるのです。

私たちが「願う」ということを主は期待しておられるのです。私たちが自律的に判断をし、このようにしてほしい、という渇望。その私たちの渇望、それが神さまへの期待となって、祈りとなって湧き上がる。その祈りに答えたいと主は決意なさっておられる。

それと同じように、自分がどのように生きるのか。肉に従って生きるのか、それとも御霊に従って生きるのか。主は強制なさいません。私たちが自律的に御霊の道を選択するのを期待しておられる。私たちが選択するのに答えて、私たちを祝福しよう、いのちに生かそうと決意なさっておられる。

今日、私たちはどのように生きるのか。相変わらず肉に従って生きるのか。それとも信仰をもって、御霊によってからだの行いを殺すのか。どちらに生きるのでしょう。