静まりの時 詩篇78・12~31
日付:2024年04月24日(水)
23 神は上の雲に命じて
天の戸を開き
24 彼らの上に食べ物としてマナを降らせ
天の穀物を彼らに与えられた。
25 それで人々は御使いのパンを食べた。
神は満ちたりるほど食物を送られた。
26 神は東風を天に起こし
御力をもって南風を吹かせられた。
27 彼らの上に肉をちりのように
翼のある鳥を海の砂のように降らせ
28 それを宿営の中
住まいの周りに落とされた。
29 彼らは食べ十分に満ち足りた。
こうして彼らが欲望を満たすままにされた。
30 彼らがその欲望を手放さず
まだ食べ物が口にあるうちに
31 神の怒りが彼らに向かって燃え上がり
彼らのうちの最も頑丈な者たちを殺し
イスラエルの若い男たちを打ちのめした。
(23-31)
神さまは、荒野の旅を続けるイスラエルに、天からマナやうずらを送り養われました(出エジプト16章)。神さまは、主にある者をその飢えから守り養ってくださいます。「糧は豊かに天降るマナ ああベウラわが地よ」(新聖歌347)と、祝福してくださる神さまを私たちは讃えます。
しかしこの天からマナを降らせたという出来事を、聖書は単純に祝福ととらえていないようです。民数記11章19,20節を見てみましょう。
19 あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
20 一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」
(民数記11章19,20)
ここには、神さまがあふれるほどのマナを与えられるのは、神さまを信じようとしなかったイスラエルへのさばきがその目的である、と語られています。満ち溢れることによるさばき、豊かにされることのさばきがあると、語っているようです。
欠乏によるさばきもあれば、みちあふれるほどに与えられるさばきがある。聖書はそう語るのです。
世界の多くの地域において欠乏があります。飢餓が起こります。食物は足りていないのか。ある報告では、地球は全人類が倍ほど食することのできるものを生産しているそうです。ではなぜ足りないのか。それは分配の仕方に問題がある。ある一部の人間が、あふれるほどの富を手にしていることにより、分配が偏り、飢餓が起こっている、というのです。
20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。
「貧しい人たちは幸いです。
神の国はあなたがたのものだからです。
(ルカ6章20節)
心の貧しい者の幸いを語るマタイに対して、ルカは文字通り貧しい者の幸いを語ります。
もちろん欠乏状態が、私たちに幸いをもたらすわけではありません。貧しさによって神さまを求める心が生み出されることが幸いなのです。もし欠乏によって神さまを見失ってしまうならば、その欠乏はわざわいです。
箴言の言葉に耳を傾けましょう。
7 二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
8 むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で、
私を養ってください。
9 私が満腹してあなたを否み、
「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。
(箴言30章7~9節)
「日ごとの糧を今日もお与えください」とイエスさまが教えてくださった主の祈りは、私たちが健やかに生きるために欠かすことのできない祈りです。
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
それからイエスは人々にたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。
(ルカ12章15~24)
脳梗塞を患い一時言葉を失った恩師の宣教師が、言葉を取り戻していく中で、最初に出た言葉が「Robin(ロビン、コマドリ)」だったそうです。懸命のリハビリの中、庭を眺めておられたのでしょう。鳥のことを考えておられたのでしょう。
田んぼ道をウォーキングしていると、カエルが鳴いています。どこから出てきたのか あめんぼう が泳いでいます。ひばりが騒いでいます。自然は、満ち足りることを知っているようです。神さまが養っていてくださることを全身で味わっているようです。