彼らをお守りください

静まりの時 ヨハネ17・6~13
日付:2024年05月03日(金)

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(11)

 9節に「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします」とあります。イエスさまが父なる神さまにお願いされています。何を願っておられるのか。11節の「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください」が直接的な願いの言葉だと思います。そして父なる神さまに守られることによって、何が実現するのか。「わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」。彼ら、すなわち弟子たちが一つとなること。さらには主にある者が一つとなること、そしてそれは教会が一つとなること。
 教会が一つとなること。そのためにイエスさまは、父なる神さまに向かって彼らを守ってくださいと願っておられます。祈っておられます。
 教会が一つとなる、ということが、教会が父なる神さまに守られているということの証しである。逆に、教会が一つとなっていない、ばらばらである、ということは、神さまの守りが失われている。イエスさまは、私たちが神さまに守られて生きるように、そしてそのために一つとなるように、祈ってくださいました。

 教会が一つとなる。そうして神さまの守りが実現する。聖霊降臨の日に起こったことは、聖霊に満たされた弟子たちが「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」ことでした。言葉によって、言葉の壁が取り除かれたのです。さまざまな違いをそのままに一つとなったのです。

 その後、教会はさまざまな形で分裂の危機に直面しました。給食の配給のことで起こった問題(使徒6章)、異邦人をどう受け入れるのか(使徒15章)などなど。いずれも教会は、会議(後に公会議と呼ばれる)を行い、その結論を皆で共有し対処しました。忌憚なく議論を交わしつつも、決定されたことに従っていく。そうして一つとなっていく。一つとなって守られていく。
 何が守られていくのか。人が守られる、教会組織が守られる、ということもあるかもしれませんが、何よりも信仰が守られていく。信仰が純粋で正統的な信仰として守られていく。いくら組織が拡大し、トラブルがない状況であっても、信仰が信仰でなくなるならば、それは真実に守られていることではない。教会は信仰によって一つとなるところなのだ、と。

 分裂が起こるということは、さまざまな違いが顕著になる場面において、それぞれの自己の正当性を主張することによって起こるのだと思います。たしかにさまざまな違いを持っている私たちが、単純に一つとなる、と考えると、その違いに「我慢する」ということを考えがちですが、使徒の働きに登場する弟子たちは、決していわゆる我慢する人たちではありませんでした(使徒15章36節以降、第一テモテ1章18節以降、6章20節ほか)。
 教会が互いの違いによって生まれる分裂の危機に面したとき、弟子たちがやったことは、本当に大切なこととそうでないこととを峻別し、本当に大切なことは譲らない(譲れない)、しかしそうではないことについてはかなり幅広い立場をとった、ということでしょう。そうして一つとなること。そこに主の守りがあることを証ししたのだと思います。

 ガラテヤ書の中で著者のパウロはケファ(ペテロ)に対して厳しい言葉を語っています。

「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。『あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。』」(11~14)

 簡単に言うとペテロは、人の顔色をうかがって優柔不断な行動をとった、それが他の弟子たちにまで影響を与えてしまった、ということでしょう。パウロは相手がだれであっても、真理を語ることに遠慮をしません。
 しかし使徒の働きには次のような言葉があります。

「それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」(使徒16章1~3節)

 割礼派を恐れて優柔不断な行動をとったペテロを非難したかと思うと、自分は、テモテを遣わすにあたって割礼を受けさせているのです。この辺が聖書の面白いところで、使徒たちの魅力だと私は思います。
 やがて天国に行ったとき、ペテロとパウロが談笑しているところで、あれはどういうことだったのでしょうか、と聞いてみたいところです。きっと彼らは答えるのではないか。自分たちはそんなもんなのですよ、しかしイエスさまは素晴らしいお方ですね、と。

 教会ではワックスがけが行われました。ワックスは一応5分で固まるそうですが、完全硬化までは24時間かかるということで、今日一日教会へは出入りをしないことにしましょう。ご協力よろしくお願いします。会堂は施錠されています。ハンナの花畑の作業が行われる予定ですが、トイレはゲストルームをご利用ください。


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