神から生まれた者はみな、世に勝つからです

静まりの時 第一ヨハネ5・1~5
日付:2024年05月01日(水)

1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。
2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。
3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。
4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。」

 イエスさまを信じる者は、すべて神さまから生まれた者、すなわち神の子である、と聖書は語ります。
 この文章は、4章の終わりからの続きとして書かれています。

18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

 イエスさまを信じる者であるならばお互いに愛し合いましょう、なぜなら、イエスさまを信じる者はみな神から生まれたからです、と語ります。神さまを愛すること、すなわち神さまの命令を守ることは、兄弟姉妹を愛するっことなのだ、と語ります。
 神さまを愛し神さまの命令を守るということによって、それが自動的に兄弟姉妹を愛することに実を結ぶ、とも読めるかもしれません。たとえその時は兄弟姉妹を愛するとは言えないようなことであっても、神さまを愛してさえいるならば、あるいは神さまを愛するがゆえの言動であるならば、それは必ず兄弟姉妹を愛することに実を結ぶのだ、と。
 神さまが喜んでくださらないような生き方をしている兄弟姉妹がおられて、神さまを愛するがゆえに、その方に苦言を呈する、ということがある。その時は、その兄弟姉妹を愛したようには見えないかもしれない。しかし変に許容したり、事なかれでやり過ごすよりも、苦言を呈するほうが愛に近いような気がします。

 あるいは、神を愛すること、聖書の言葉を守ることが、自動的に兄弟姉妹を愛することになるわけではない。もし兄弟姉妹を愛することになっていないならば、いくら神さまを愛しているのだ、と言い張っても、それは神さまを愛していることにはならないのだ、とも読めると思います。
 神さまを愛するということが、かなり独りよがりなことになってしまい、自分は良かれと思っての言動をするのかもしれませんが、兄弟姉妹にとっては迷惑千万、いい加減にしてくれ、と言いたくなるようなことになっている。そうとすればやはり、自分は神さまを愛しているとは言っているけれども、この言動は、本当に兄弟姉妹を愛することになっているだろうか、と振り返ることは大切なこことなります。

 神さまを愛することは、神さまの命令、戒めを守ることである。この神さまの命令、戒めは重荷とはならない。
 おおよそ聖く義である神さまの戒めを守るということは、罪びとである私たちにとっては重荷となるはずです。しかし神さまを愛する者にとっては、それはもはや重荷とはならない。たとえば誰かのために用事をするということは、それ自体重荷であるはずですが、その誰かが自分の愛する者であるならば、単なる重荷ではなくなります。むしろ喜びとなるでしょう。
 神さまの命令は、イエスさまを信じる者にとっては重荷とならない。それは「神から生まれた者はみな、世に勝つからです」。
 世に勝つ。この罪の世に勝利する、ということ。いろいろと想像が走ります。
 ヨハネの福音書には次の言葉があります。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16・33)

 勝利の主を信じる者は、その勝利にあずからせてくださる。あるいはすでにあずからせてくださっている。
 神さまの命令が重荷とはならない。それは神さまを愛しているからだ。神さまの命令とは何か。それは神さまの子どもである兄弟姉妹を愛することだ。神さまの子どもである兄弟姉妹を愛することは、重荷とならない。なぜなら、イエスさまを信じる者はすでに世に勝ったからである。イエスさまが勝利してくださったように、私たちも勝利者なのだ、と。
 ではイエスさまは、どのように勝利してくださったのか。

 イエスさまは、天から万軍を下して、この世の様々な敵対勢力を一掃されたのか。イエスさまがなさったことは、十字架の道を進む、ということでした。世の一切の苦しみを背負って、自らが十字架上で命をささげることでした。ここに愛がある、と聖書は語るのです。それはまたここにこそ、神さまの勝利がある、と語るのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4・10)

 御子イエスさまを信じる者が、世に勝つのです。十字架の主、復活の主を信じる者こそ、世に勝つ者である、イエスさまと同じように十字架を背負う者こそ、世に勝つ者、勝利者なのです。
 勝利という言葉からのイメージが、まったく違って見えてきます。勝利者というと、表彰台の頂点に立ち、月桂樹の葉で飾られた勝利の冠をかぶり、すべての人から称賛され、その称賛の言葉に勝利の喜びの言葉を宣言している人をイメージします。しかし私たちがまことの勝利者として仰ぎ見る主イエスさまは、十字架の上で、いばらの冠をかぶらされ、血と涙を流しながら、人びとのののしりの言葉に黙って耐えておられる。そればかりは「彼らは何をしているのかわからないのです」と父なる神さまにとりなしを祈っておられる。余すところなく愛を示されたお方。そのお方こそ、まことに世に勝たれたお方であることを信じています。そしてまことの勝利とは、そのようなお姿の中にこそ明らかにされることを信じています。
 主を信じる者こそ、世に勝つ者なのです。

 ヨハネ3章16節と同じように、この「世」にも自分の名前を入れてみるとよいかもしれません。主を信じる者こそ、自分に勝つ者なのだ、と。
 克己(こっき)、という言葉があります。かつみと読ませて人の名前につけたりされます。キリスト教会では、大切にされてきた言葉の一つです。世というと、自分ではない他者をまずは想像しますが、世の代表格はなによりも自分自身なのです。
 神さまはこの「世」を愛された故にご自身をお捧げになったのですが、それによって「世」に勝利されたのです。私に対して勝利してくださった主がともにいてくださる。それが信仰でもあるのです。ですから勝利の凱旋行列に加えられた私たちは、戦いに勝利した兵士としてではなく、主によって負かされ捕らえられ連行される主の捕虜としてなのです。自己中心でどうしようもない私に対して、十字架の主が勝利してくださった、そのことを喜んでいるのが信仰生活なのです。ですから今日も勝利の主が、先頭に立って歩んでいてくださり、しんがりとなって守っていてくださいますので、安心して主の後を歩んでいきます。


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