神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません

静まりの時 第一ヨハネ2・1~8

日付:2024年04月30日(火)

1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。

3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。

4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。

7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。

8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

この手紙の書かれた目的は、手紙を読んだ者が「罪を犯さないようになるため」(1)である、といいます。このような手紙が書かれたということは、最初にこの手紙を受け取った者が、罪を犯す危険を持っていた、少なくとも手紙を書いたヨハネから見れば、その危険をはらんでいた、ということでしょう。

このような手紙を受け取ると、自分はイエスさまを信じたといいながら罪を犯してはいないだろうか、と自分を省みることになります。それは大切なことだと思いますが、人間はどこまでも罪びとなので、自分を省みるだけにとどまらず、自分の周りにいるキリスト者に対しても、そのような目で見ることになるかもしれません。まるで裁判官のようになって、誰かの罪に敏感になってしまう。

ヨハネはすかさずこう語ります。「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です」。罪を犯さないようにと省みるときに、忘れてはならないことは、イエスさまがすでに十字架において宥めのささげ物となってくださったこと、そうして罪は赦されていることです。

さて、罪を犯さない、ということは一体どういうことなのか。ヨハネは続いてこう語ります。「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります」。罪を犯さないことは、すなわち、神の命令を守ることである。神の命令を守っているということによって、自分が神を知っているということが分かる。神を知っている、ということは、神の命令を守っている、という生き方によって明らかになる。もし神を知っているといいながらも、なお神の命令を守っていないならば、それは偽り者である。その人のうちに真理はない。

ヨハネの福音書には「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とのイエスさまの言葉が記されています。神の命令を守っている人のうちには、真理であるイエスさまがおられる。神の命令を守っていないならが、その人のうちにはイエスさまはおられない、といいます。

神の命令を守るとは、すなわち「神のことばを守ること」(5)である、といいます。神のことばを守っている、ということによって、その人のうちに神の愛が確かに全うされている。神の愛が全うされる、ということは、神のことばを守っているということによって明らかにされる。そうして、その人自身が、神のうちにいること、が分かる。

罪を犯さない、ということは、神の命令を守っていることであり、それこそ神を知っているということであり、そのような人のうちにこそ真理のイエスさまはいてくださる。そしてそれはまさに、イエスさまのうちにいることである、と語っているようです。

神さまが私のうちにいる。私のうちが神さまのうちにいる。この二つが信仰者のありようであるといいます。

これらは、決して新しい命令ではない(7)。もうすでに最初から持っていた古い命令、すなわち旧約聖書において語られてきた命令である。その古い命令を、いま改めて新しい命令としてあなた方に語る。どう新しいのか。それは、イエスさまが「まことの光」として輝いておられるからである。この新しい命令は、イエスにおいて真理であり、またキリスト者においても真理である。共同訳では「イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です」。

この「真理、真実」と訳されていることばと、これに続く「まことの光」の「まこと」ということばは、同じギリシャ語「アレテイア」の派生語です。無理に訳すと、8節は「私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、真理の光がすでに輝いているからです」。あるいは共同訳なら「しかし、私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。それは、イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。闇が過ぎ去り、すでに真実の光が輝いているからです。」

真理・真実の光が輝いているから、この新し戒めは、イエスさまにとっても、キリスト者にとっても真理・真実なのだ、というのです。

私たちにとって真理である。私たちのうちには真理がないのですが、このまことの光であるイエスさまが輝いておられるので、この新しい命令に真理がある。その真理によって私たちは生きる。

それとともにイエスさまにおいても、このまことに光が輝いているので、新しい命令は真理なのだ、というのです。イエスさまはまことの神さまなのだから、ただ単純にこの新しい戒めは真理である、と言えば済むことだと思いますが、わざわざ、まことの光はわたしにとっても真理なのだよ、とイエスさまが言っておられる。

神さまが、私たちの罪を赦すために、なぜ十字架にかかる必要があったのか。神さまなのだから、ただ単純に、赦す、と宣言されればそれで澄んだことではないか。

一つは、私たちにとって、十字架の主のお姿が、赦しを現実のものとして受け取ることを可能としたこと。私たちが、神さまの赦しを真実として受け取れるのは、十字架の出来事があったからです。私たちにとって、十字架抜きでは、赦しはないのです。

これとともに、もう一つのこと。それは神さまにとって、十字架の出来事は、欠かすことのできない真理であった、ということ。神さま自らが、苦しみを経験した、死を経験した、ということ。単なるパフォーマンスではなく、できることならこの杯を取り除けてほしいとまで祈られるほどに、現実となった十字架をその全身で経験してくださった。このこと自体が、神さまにとって真実である、真理である。動かすことのできないことである。ここでは、私たちが赦されているかどうかの私たちの感覚は最優先事項ではなく、三位一体の神さまご自身のうちにある愛の出来事であるかどうか、が第一のことなのです。

極端に言えば、私のうちにたとえ赦されているという感覚が希薄であったとしても、神さまのうちでは圧倒的な現実として存在している。それが十字架である、というのです。ですから私たちの宣教のことばは、赦されているという感覚のない人たちに向かって、あなたの罪は赦されています。たとえあなたがそれを感覚的に、感情的に受け入れることがなかったとしても、神の赦しの現実は圧倒的な現実としてあなたを包み込んでいる、と語ることです。これは私という人間に対する言葉としても真実です。

わたしのうちに赦されたという感覚が希薄であっても、まことの光であるイエスさまが輝いておられる、これはイエスさまにとっても真実である、だから大丈夫、私は神の赦しのみ手の中にある。たとえ私の信仰が希薄になっても、イエスさまの真実は変わることがない、と信頼することができるのです。

「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」(6)

イエスさまは、いかなる時も父なる神さまへの信頼によって歩まれました。それはイエスさまが父なる神さまと一つである、ということでしょう。イエスさまが歩まれたように歩むとは、このように神さまへの信頼に生きる、ということです。自分はイエスさまのように歩んでいるだろうか、神の愛が全うされているだろうか、罪を犯してはいないだろうか、神を本当に知っているだろうか、といった問いは、すべて、神さまとの豊かな交わりの中に生きているだろうか、という問いに集約されます。誰かに対して「あなたはイエスさまが歩まれたように歩んでいますか」という問いは、その人が自分の都合のよいように愛に生きているかどうかを裁く言葉ではなく、またそれをもって相手をコントロールしようとする言葉でもなく、あなたはイエスさまとの親しい交わりの中に生きていますか、という問いに集約されるのだと思います。しかし十字架の主の前で自らの罪を懺悔したキリスト者はみな、そのような問いを誰かにするということがいかに高慢なことかということを知っていますので、この問いはどこまでも自分に対する問いかけとして成り立つことなのだと思います。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: