イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです

静まりの時 ヨハネ6・32~40
日付:2024年04月23日(火)

33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。
(33-35)

 ヨハネの福音書6章は、「五千人に食べ物を与える」「湖の上を歩く」「イエスは命のパン」「永遠の命の言葉」と四つの表題がつけらた段落によって形作られています。これを出エジプト記の出来事になぞらえて書かれたという方がいるそうです。五千人の給食や命のパンは、荒野で神さまから与えられたマナ、湖の上を歩くのは、神さまが紅海を分けられた出来事、と。
 出エジプト記において、神さまはご自身がまことの神であることを示すとともに、イスラエルの民を守り導く存在、養う存在であることを明らかにされました。このヨハネの6章においてはイエス様ご自身が、まことの神であり、イスラエルのみではなく、すべての人を守り導く存在、養う存在であることが語られます。
 パンを求めて自らを捜し求めた群衆にむかって、イエスさまが、「神さまのパンは、天から下ってきて、世にいのちを与えるものである」といわれると、群衆は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」と言いました。
 群衆はどのような心をもって、そのパンを私たちに与えて下さい、といったのか。彼らが求めたパンとはいったいなんであったのか。五千人の給食で体験した、分けてもなくならないパンのことなのか。あの出エジプト記に記されている天からのマナなのか。いのちを与えるパンとは、この肉体を生かすためのパンなのか。それとも魂をも生かす自分たちの想像を超えたパンなのか。
 人は、パンを求めて主に祈るのだと思います。そこによこしまな心があるかもしれない。しかしそうとばかりも言えない。たとえご利益的な願望による求めであったとしてもそこには必死に求める願いがある。もちろんそのようなことに終始すのであれば、キリスト教ではなくなってしまう。教会はどのように答えるべきであるのか。あるいは答えることができるのか。
 「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」。私たちはどのように答えるのか。

 主はこのように答えられました。「わたしがいのちのパンです」。

 驚くべき言葉です。どこからかいのちのパンを持ってくるというのではなく、ご自身がいのちのパンそのものである、と言われたのです。それはすなわち、ご自身を食べなさい、ということになります。この言葉は、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と続きますので、イエスさまがいのちのパンそのものなのだから、そのイエスさまのところに行き、イエスさまを信じるようにと招かれているのだと思います。しかしやはり「パン」といわれたことが、単に象徴的なことではなく、そこにもっと鮮明さというかリアリティーといいますか、文字通りのパンを思います。
 これはまたイエスさまのもとに来る、イエスさまを信じるということは、どう言うことであるのかが、語られていることでもあるのだと思います。イエスさまのもとに来る、ということは、精神的に心に思い描くということにとどまらず、全身をもってイエスさまのところに行く。それはやはり教会に行く、あるいは具体的な時間と場所を伴ってのことなのだと思います。また信じるということも、精神的な活動にとどまることなく、からだ全体でのことなのだと思います。

 イエスさまは、わたしがいのちのパンである、と言われました。ご自身が、食べられる存在となってくださったのです。
 食べられるものとなってくださった主の愛。私たちはその愛に生かされています。

「『食べること』は、食べ物にとっては引き裂かれ、かみ砕かれ、すりつぶされ、自らの姿を失い、死んでいくことです。そして、飲み込まれて消化され、自らが消えていくことです。自ら消えていきながら、自らを消し去る者に自分のいのちを与える出来事です。」
中川博道、『存在の根を探してーイエスとともに』、オリエンス宗教研究所、2015年、113頁


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