どのようにして、私一人であなたがたのもめごとと重荷と争いを負いきれるだろうか

静まりの時 申命記1・11~20
日付:2024年04月22日(月)

12 どのようにして、私一人であなたがたのもめごとと重荷と争いを負いきれるだろうか。
13 あなたがたは部族ごとに、知恵があり判断力があり経験に富む人たちを出しなさい。彼らをあなたがたのかしらとして立てよう。」
14 すると、あなたがたは私に答えて、「あなたがしようと言われたことは良いことです」と言った。
15 そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり経験に富む人たちを選び取り、彼らをあなたがたの上に立つかしらとし、あなたがたの部族の千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、つかさたちとした。
16 そのとき、私はあなたがたのさばき人たちに命じた。「あなたがたの同胞相互の言い分をよく聞き、ある人とその同胞との間、また寄留者との間を正しくさばきなさい。
17 裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」
18 私はまた、そのとき、あなたがたが行うべきすべてのことを命じた。
(12-18)

 申命記はモーセがその晩年に自らの人生を振り返りつつイスラエルの民に語り記した告別の説教のようなものです。その冒頭に、民をさばきくおいて役割を分担したことを記しました。
 少ない人数の時はそれほど必要を感じなかったのです。しかし「あなたがたの神、主があなたがたを増やされたので、見よ、あなたがたは今日、空の星のように多い」(10)という状況となり、モーセは自分一人では担いきれないことを悟りました。それでさばきにおける役割分担を行ったのです。
 自分にできることと、自分ではできないことを知っている。モーセはそういうことを知っている指導者でした。これは指導者として大切な資質であると思います。
 自分にできることをしっかりと行う指導者でありながら、自分にはできないことを知っている。そしてそれを、それができる人にゆだねていく。何もかも自分でするのではなく、ゆだねていく。信頼していく。モーセはそういうことができた指導者でした。
 あるいは自分にできることであっても、自分がしなければならないことなのかどうか、自分が本当にしなければならないことはなにか、を知っていた、ということかもしれません。

 さて役割を分担していくといっても、誰もがそれを担うことができるわけではありません。モーセはリーダー選任のための基準を語りました。

 「あなたがたの部族のかしらで、知恵があり経験に富む人たちを選び取り、彼らをあなたがたの上に立つかしらとし、あなたがたの部族の千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、つかさたちとした」

 きちんとした組織をつくり、それにリーダーを立てます。そのリーダーは「部族のかしら」であること、「知恵があり経験に富む人たち」であること。リーダーが立てられるということは、そのグループの人員は、そのリーダーに従うということが前提とされます。リーダーに隷属するのではなく、自分たちが選んだという責任を果たすのです。こうしてイスラエルの荒野の旅は、最初の段階から、組織だった共同体として出発していきました。

 選任されたリーダーたちにモーセは語ります。

「あなたがたの同胞相互の言い分をよく聞き、ある人とその同胞との間、また寄留者との間を正しくさばきなさい。裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。」(16-17)

 「正しくさばくこと」。それは「人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない」、ということですから、この場合の「正しい」は、限りなく公平である、ということです。倫理道徳的な正しさも大切ですが、まず問われるのは公平さなのです。それが後に禍根を残さない、平和に旅を導く道である。それが神を恐れる者のなすさばきのルールである、と。

 さらにモーセは語りました。

「あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(17後半)

 各リーダーのスーパーバイザーとしてモーセは責任を果たそうとします。リーダーとしてその役割を担う者は、スーパーバイズされる必要がある。それは指導かもしれないし、支援かもしれない。いずれにせよ孤独に落ち込むことのないようにとの配慮がなされます。

「これからの時代の司祭や牧師は、道徳的で、よく訓練されており、仲間を熱心に助け、時代の要求する重要な問題に創造的に対応できる、というだけでは足りません。・・・男女の別なく、指導者として真に神の人であるか、すなわち、神の御声に耳を傾け、神の美しさを仰ぎ見、神の受肉したことばに触れ、神の無限の善を十分に味わうために、神の臨在の内に住もうとする、燃えるような願いを持つ人であるか、ということです。
・・・
どのような問題が目の前にあろうと、イエスとの愛の交わりに、それを処理する知恵と勇気を見いだす必要があります。こうした、神との個人的な関係に深く根ざすことなしに急を要する問題を扱えば、容易に分裂を引き起こすはめになります。なぜなら、その問題の本質を知る以前に、自分の意見によって意識が捕らえられてしまうからです。しかし、いのちの源に、個人的な親密さでしっかりと根づいているなら、私たちは相対主義に陥ることなく柔軟さを保ち、凝り固まった考えに陥ることなく確信し、攻撃的になることなく相手に立ち向かい、軟弱さからではない柔和さと赦す心をもち、人心を操作することなく真の証しをなすことができるでしょう。」
(ヘンリ・ナーウェン、『イエスの御名で』、あめんどう、1993年、45頁)


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