彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

静まりの時 イザヤ53・4~8
日付:2024年04月20日(土)

4 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みを担った。
 それなのに、私たちは思った。
 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
 私たちの咎のために砕かれたのだ。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
 しかし、主は私たちすべての者の咎を
 彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。
 だが、口を開かない。
 屠り場に引かれて行く羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことか。
 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、
 生ける者の地から絶たれたのだと。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(5)

 私たちの平安は、「彼への懲らしめ」によってもたらされる。私たちの癒しは、「そのうち傷」のゆえになされる。平安や癒しは、この「彼」への懲らしめや打ち傷によって実現する。
 彼への懲らしめとは何か。キリスト教会は、それが主イエスさまの十字架の苦しみであると信じました。イエスさまの十字架の苦しみによって、私たちの平安や癒しがある。私たちが平安や癒しをいただきたいと願うならば、十字架の主を見上げなければならない。その苦しみを学ばなければならない。
 十字架の苦しみを学ぶ。それは日々自分の十字架を負うこと。自分に与えられている大なり小なりの十字架を負う、受け止める、学ぶ。それを通して主の十字架を学ぶ。そうして私たちは平安や癒しをいただく。

「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11・29,30)

「私たちはみな、羊のようにさまよい、
 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
 しかし、主は私たちすべての者の咎を
 彼に負わせた。
 彼は痛めつけられ、苦しんだ。
 だが、口を開かない。
 屠り場に引かれて行く羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。」(6,7)

 「羊のように」。私たちは「羊のように」さまよい、自分勝手な道に向かって行った。しかし主は「羊のように」口を開かない。
 羊に、二つの姿を見ています。一つは、自分勝手な道にさまよってしまう姿。もう一つは、屠り場に引かれて行く羊にように、また毛を刈る者の前で黙っている羊のように黙っている姿。一つは私たちの姿。もう一つは主の姿。一方は圧倒的に自分勝手な姿。もう一方は徹底して自分を明け渡している姿、ゆだねている姿。この二つが一つになっていきます。

 旅の中で、英国では日曜日を挟むことができなかったので主日礼拝に参加することができませんでした。それで週日でも行っている礼拝の一つに参加する計画を立ててくださいました。ロンドンのウエストミンスター寺院(ちょっと有名な観光地となっています)では、訪れる観光客へ有料で見学が許されていますが、教会ですので、礼拝をささげに来る人には無料で開放されています。もちろんその場合は写真撮影など観光客のような振る舞いは厳禁です。私たちはその礼拝に参加することにしました。ちょうどイースターの日曜日が開けた週でしたが、英国はイースター休暇が続いていました。大勢の観光客が周りをぞろぞろと歩いている中、席について礼拝にあずかりました。20~30名ほどだったと思います。教会は英国国教会、つまり日本でいうと聖公会です。聖書の言葉の交読、定型の祈り、主の祈り、説教、聖餐式と続きます。
 聖餐式は、順に10名ほどが前に出てひざまず(づ)きます。牧師(司祭)がパン(この場合ホスチアと呼ばれる聖餅)を分餐します。聖餐にあずかる者は手を開いてまっています。続いて、助祭が大きめのカップ(カトリックなどでもカリスと呼ばれるもの)をもって、パンを配る司祭の後に続いて順に配っていきます。聖餐を受ける者は、これもひざまずいたままでただ口を開けて待っています。助祭はその口にカップを傾けぶどう酒を分餐していきます。
 パンもぶどう酒(私たちの教会ではぶどう汁ですが)を、聖餐にあずかる者自らがその手で「取る」というのは、おそらく後発のプロテスタントの特色かもしれません。カトリックの文化を色濃く残しているグループは、今も聖餐式のパンとぶどう酒は、ひたすら「与えられるもの」としての姿を大切にしています。パンは主のからだ、ぶどう汁は主の血なのです。単なる象徴ではありません。ですから、人間がそうたやすく触れたり、自分勝手に取り扱ってはいけません。
 主のからだと血にあずかることによって、「羊のように」さまよってしまう私を、「羊のように」従順な主が、連れ戻してくださり、新しく生かされていることを深く覚えるときでした。主は「Wounded healer」なのです。


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