静まりの時 イザヤ43・1~7
日付:2024年01月02日(火)
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
だから、わたしは人をあなたの代わりにし、
国民をあなたのいのちの代わりにする。
5 恐れるな。
わたしがあなたとともにいるからだ。(4,5)
私たちは自分の価値がどのようなものであるのか。どんなに尊いものであるのかを知りません。それが、私たちの暗闇であり浅はかさです。
御言葉が打ち開かれれば、御言葉の光に照らし出されて、私、というものの価値が明らかにされます。私たちは、その御言葉の光の中で私を正確にとらえることが出来ます。
この御言葉の光、その恵みに、今年も出会い続けていきたいと思います。
神さまの目に、私、はどのように映っているのか。聖書は「あなたは高価で尊い」と語りかけます。語りかけられたこの言葉に、耳を傾けたいと思います。そして信じ受け入れ、御頼りしたいと思います。
神さまは、私をどのようにとらえよう、接しようとしておられるのか。聖書は「わたしはあなたを愛している」と語ります。神さまは、私たちと、愛する、という関係の中に生きていこうとされています。それはまた、私たちが神さまを愛して生きていくことを、神さまご自身がお求めになっておられることでもあります。
エレベーターにたまたま一緒に乗り合わせた者同士、というような関係ではなく、職場の上司と部下のように命令する、あるいは命令される関係でもありません。学校の先生と生徒のように、指導する者と指導される者、という関係、あるいは反抗され、反抗する関係でもありません(笑)。愛し、愛される関係。それが神さまが私たちにお求めになっておられる関係です。
「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」
共同訳2018では
「人をあなたの代わりに 諸国の民をあなたの命の代わりに与える。」
神さまは、イスラエルを愛しておられるので、人をあなた(イスラエル)の代わりにする、と言われます。また、国民、諸国の民を、あなた(イスラエル)の命の代わりに与える、と言われます。
捕囚の苦しみの中にあるイスラエル。その苦しみから解放するために、神さまは他の民族を犠牲にする、ということではないでしょう。いったいどういう意味であるのか。
イスラエルにとっての捕囚の苦しみは、現在進行形の苦しみです。その苦しみにはどのような意味があるのか。どのような理由があるのか。ただ自分たちの罪、神さまを第一にせず偶像礼拝に走った罪に対する罰なのか。それとも罪の中にあるイスラエルを矯正するために与えられた懲らしめなのか。
ここに、「命の代わり」、という言葉が出ています。イスラエル民族は歴史上さまざまな苦しみに出会ってきました。(もちろん多くの民族も同様なのですが)。
イスラエルは、その苦しみの意味を「身代わり」と捉えてきた、とある書物で読んだことがあります。世界の苦しみを背負っている、という意味です。誰かの苦しみを、自分の苦しみとして背負う。そうして世界の贖いのために、自分たちはこの苦しみを経験しているのだ、というのです。
イスラエルが、どうして世界の身代わりとして苦しみを担うことが出来るのか。それは高価で尊い存在だからだ、神さまに愛されているからだ。苦しみの意味は、罰でも懲らしめでもなく、神さまの愛である。それが苦しみの理由だ、というのです。
神さまが私たちに対しても、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、とおっしゃっておられるのは、自己愛を満足させるためのもの、そのような利己的なものではなく、あなたを用いて世界を慰め、世界を支える、世界を救うのだ、と。
そんな風に読んでみると、7節の意味も少し変わってきます。
7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、
わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。
これを形造り、また、これを造った。
苦しみを背負う姿の中にこそ、神さまの栄光が豊かに表されています。
もちろん私たち人間には限界がありますが、このことばにぴったりとあてはまるのは、イエスさまではないかと思います。私たちはイエスさまのお苦しみによって、生かされているのです。
君は わが眼に 価値高く、尊ばれており、
わたしが君を愛しているから、
わたしは 国々を 君の身代わりとして 与え、
国々の民を 君の命の 代わりとする。(左近淑、『混沌への光-現代に語りかける旧約聖書』、ヨルダン社、1975年、187頁)