行け、あなたのその力で

静まりの時 士師記6・11~18
日付:2023年12月20日(水)

11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。
12 主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」

 ギデオンは、イスラエルを襲うミディアン人から隠れるために、ぶどうの踏み場で小麦を打っていました。そのギデオンに向かって、主の使いは「力ある勇士よ」と語りかけました。人間的に見れば、勇士どころか、臆病風に吹かれた哀れな男、それがギデオンでした。しかし神さまは、そのギデオンに向かって「力ある勇士よ」と語りかけられたのです。

続いて主の使いは語ります。「主があなたとともにおられる」(12)。

 それを聞いてギデオンは答えます。

「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」(13)

 ギデオンの臆病は、ギデオンがただ臆病だったわけではありません。ギデオンの生きた時代に、神さまがともにおられることを明らかにする、しるし、が見えなかったのです。本当に神さまがおられるならば、なぜこんなことが起こるのか、ということが連続していたのです。
 しかしそう答えたギデオンに主の使いは語ります。

「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14)

 ギデオンは、自らの小ささ、弱さを理由に挙げて、この主の召しに抵抗しますが、主の使いはギデオンをねんごろに導いてくださいました。

主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」(16)

 主の使いはこのあとギデオンに主がともにいて下さることのしるしを見せてくれます(17)。

 「行け、あなたのその力で」。「わたしはあなたとともにいる」。

 主は、ギデオンにミディアンに勝利するだけの力があるので、ギデオンを召そうとされたのではありません。ギデオンには力がないのです。自らの力がないことはギデオン自身誰よりもよく知っています。しかし主はそのギデオンに「その力で」行け、と言われました。「あなたのその力で」。

 かつて高校受験の前に担任の先生から、「不安になったら、いままでやって来た問題集を机に積んで、自分はこれだけやって来た、ということを確認して自信をもって臨みなさい」と励まされました。そうだこれだけ頑張って来たんだから大丈夫だ、あとは本番で落ち着いて力が発揮できるように心身を整えよう、ということになります。
 しかしこれは、やって来た者にとっては大きな励ましかもしれませんが、私のようにやってこなかった者にとっては、より一層不安となることでした。自分には力がない、備えがない、知恵もない、勇気もない、ということが確認されただけのことでした。どうか神さま、力が発揮できるようにではなく、力以上のものが発揮できるようにしてください、と祈りたくなります。
 人生も、十分に力を蓄えている人、知恵のある人にとっては、「あなたのその力で」生きよと言われることは、励ましかもしれませんが、力のないもの、弱さを自覚する者にとっては、「あなたのその力」と言われても・・・、どうしていいか分かりません。自分の力ではなく、自分の力以上のもので。自分の力ではない、大きな力で人生を生きていこう、と願います。
 しかし神さまは、「あなたのその力で」と言われるのです。力のないギデオンに向かって。そして力のない私たちに向かって。あなたのその力で、と。
 それが、「わたしはあなたとともにいる」という言葉に結び付きます。もし自分に力があれば、神さまがともにいる、という言葉は、あってもよい言葉ですが、なくてはならない言葉とななりません。力がないことを十分に知りながら、その力で行け、と言われたならば、「わたしはあなたとともにいる」はなくてはならない、ありがたいお言葉となります。

 「わたしはあなたとともにいる」。これが、なくてはならないしるしなのです。

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
(マタイ1・23)

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
(ルカ2・11,12)

 自己肯定感、セルフエスティームが豊かであると人生を生きやすくなるのだと思います。そのために、自己が肯定されること、が大切なのだと思います。自分の肯定的な部分を確認し、自己価値を高めていく、といったことでしょうか。しかし自分の肯定的なことが、あまり見つからない者にとっては難しいことです。
 ある本に、自己肯定ではなく、自己受容が大切である、といったことが書かれていました。自己肯定が、自分の肯定的な部分を発見して自己価値を確認する、ということだとすれば、自己受容の方は、自分の肯定的な部分も、その逆に否定的な部分も両方共を「受容する」ということです。
 自己肯定をしようとして、自分の否定的な部分をも肯定しようとすれば、変に開き直ってしまった生き方となってしまい、人びとと共に生きる道が難しくなり、かえって生きづらくなるでしょう。
 自己受容は、自分の否定的な部分も、それも自分自身なのだ、と受け止めていく。愛していく、といってもよいと思います。けっして開き直るのではなく、相変わらず否定的部分なのですが、それを、かわいいやつだな、と受け入れていくのです。そうすると、共に生きている人びとの中にある小さな否定的な部分も、受容して生きていくことが出来るようになるのではないか。
 神さまは、私たちの肯定的だと自分で思っている部分も否定的な部分もひっくるめて、「あなたは高価で尊い」と語ってくださったのですから、「あなたのその力で」、そのままで行けばよいのです。

 今日はキャンドル・サービスを行います。静かに、主のご降誕をお祝いしたいと思います。