わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です

静まりの時 ヨハネ6・41~51
日付:2023年06月09日(金)

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
(ヨハネ6・51)

 イエスさまはいのちのパンです。いのちのパンであるイエスさまを食すならば、だれであっても、永遠に生きるのです。イエスさまの言われるパンとは、イエスさまの肉、すなわちお体のことです。
 イエスさまの身体を食べるならば、永遠のいのちをいただくことができる、というのです。これを文字通りイエスさまの肉体を食すると考えると、恐ろしいことになります。それで私たちは抽象的に考えることになります。イエスさまのお身体を象徴的に表した小麦粉でできたパンを食べることで、永遠のいのちをいただくことであろう、と。

 47節では「信じる者は永遠のいのちを持っています」とお語り下さいましたので、信じるということで私たちは永遠のいのちを持つのです。その「信じる」ということが、パンを食する、という肉体的な活動と一つになっている、ということでしょう。

 昨日は、信じるということと告白する、ということとが一つとなることを思いめぐらしました。今朝は、信じるということと食するということが一つとなることを思いめぐさせています。信じるという頭の中での活動と、パンを食する、すなわち手に取って口に運び食するという活動。香りを嗅ぎ、その味をあじわう。その行為をもってキリストを信じるということをする。まことに具体的な行動を通して信じる。からだ全体をもって信じるということをする。キリスト教信仰は、そのような信仰であると語っています。決して象徴的、抽象的なことではありません。

 私たちがイエスさまを信じるということを、ご自身が食される、ということにおいて実現するように導いてくださいました。ご自身が食されること。手に取られ、口に運ばれ、歯で噛み砕かれすりつぶされ、消化液で影も形もなくなってしまうこと。そのように自らを一粒の麦のように捧げてくださっていること。そうしてまで私と一緒に生きることを願っていてくださること。そこにイエスさまの愛が豊かに表されているのです。

「聖餐のパンは実に卑近なものである。しかし実に主はこの卑近なものをとおして、卑近な方法でわたくしどもに接近したもうのである。聖餐式においてわたくしたちは遠くに行く必要もなければ、高遠な哲学や難しい理屈を介することなく、実に身近に主を体験することができる。それは主が聖餐のパンと杯とをとおして御自身がわたくしどもに接近しようと欲したもうからである。この主御自身の接近の欲望が礼拝を成り立たしめ、また聖餐の式を可能ならしめるものである。わたしたちは御霊によってこの主御自身の御心を知るのである。」
(赤木善光、『聖餐論』、日本基督教団自由が丘教会出版委員会、1981年、118頁)