ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

静まりの時 ヘブル9・11~14
日付:2023年03月17日(金)

 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
(ヘブル9・11~14)

 「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら」。
 これはユダヤの人にとっては自明のことだったのだと思いますが、私たちにはどれだけ分かることなのでしょう。いけにえの血や灰を振りかけると「からだをきよいものにする」という信仰。そういう信仰が私たちに確かにされているのだろうか。その前提のない者にとって、イエスさまの十字架の血が私たちをきよめるのだ、ということが本当に理解できることなのだろうか。といった疑問がまず起こって来るのだと思います。
 初代教会の信仰の戦いのひとつとして、旧約聖書(これはキリスト教会がそう呼ぶだけですが)を、正典に数えるかどうか、ということがあったと教えらえます。マルキオンだったかと思いますが、もう旧約聖書などいらない、と主張したとか。しかしもし旧約聖書をいらないとしてしまったら、このヘブル書のことばは理解不能となってしまいます。
 献げられたものの血や灰が私たちのからだをきよいものとする、という信仰。それは私たちの行いではなく、私たちの身代わりとなってくれたもののいのちの犠牲によって、私たちはきよめられる、救われる、という信仰でしょう。まずこのことを理解しなければならないのでしょう。
 この旧約聖書のなかで行われてきた、犠牲と血は、毎年行わなければならないものでした。つまりこの犠牲と血の効力は、それまでの罪について効力があったということで、これから犯す罪については、効力がない。よって来年に再び同じ犠牲を払わなければならないのです。
 しかしイエスさまの犠牲は、「ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」とヘブル書は語ります。くり返して払わなければならない犠牲ではない。その効力は、過去、現在、そして将来におよぶのだ。すべての罪を贖うのだ、と語るのです。
 さらに動物の犠牲の血や灰は、私たちのからだをきよくする、と言いますが、イエスさまの血は「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」と語ります。良心と訳されている言葉には、単に「意識、自覚」という意味があり、語源は「分かる、気づく、悟る」という言葉です。私たちの知識は、きよめられなければならないものなのです。どんなに知識が深くとも、それがきよめられていない、ということが人間にはある。信仰にいきるということは、その知識がきよめられていくことだ、というのです。イエスさまを信じて救われた、ということは、信じることによって罪が赦され天国が約束されたのでそれ以上のことは何一つ必要でない、ということではまったくなく、きよめられていく、という道に立ったということなのです。

 キリストの血は、私たちを「死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」といいます。死んだ行いから離れているであろうか。生ける神に仕える者となっているだろうか。それとも、結局は自分が中心で、相変わらず救われる前と同じように生きてしまっているのではないだろうか。それが問われていることなのでしょう。

 昨年少し取り組んだような気がしていますが、礼拝について少し学べばいいのではないかと思い、別のカテゴリーに掲載してみたいと考えています。
 暖かい日が続いています。感謝です。今日、明日は少し気温が下がるようですが・・・。92才だったでしょうか、息子さんとご一緒に来られるご高齢の姉妹(教会の方はこれでよくわかっていただけるでしょうか)が、今週の14日に大腿骨骨折をさて入院されているのですが、そのための手術を、本日17日朝から受けられます。どうぞお祈りください。

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つくしが出ていました。夕食のてんぷらとなりました。