静まりの時 出エジプト24・3~8
日付:2023年03月01日(水)
モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。
「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」
(出エジプト24・8)
最後の晩餐でイエスさまが聖餐式を定められた時、ぶどう酒を差し出して言われました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタイ26・28)。出エジプト記において記された「契約の血」がここに新しく制定されました。それで私たちは、雄牛の血ではなく、イエスさまの血として差し出されたぶどう汁をいただきます。
「これらすべてのことばに基づいて」と語られています。契約の血は、血そのものに力があるのではなく、そこに語られた「ことば」、すなわち「主のすべてのことば」(3)が確証されるためのものである、といえるでしょう。御言葉が語られるところに聖餐式が成り立つのです。また聖餐式が成り立つところに、御言葉の確証があるのです。聖書の言葉の説き明かしと聖餐式は、車の両輪のように互いを支え合い、補い合いながら、私たちの信仰生活を前進させます。
初代の教会は2部礼拝であった、と言われます。第1部で御言葉による礼拝があり、そこには求道者も一緒にいます。それが終わるといったん解散となり、受洗者だけがそこに残り2部の礼拝が始まります。そこではパンとぶどう酒による礼拝が行なわれるのです。これは結果的にですがいわゆる部外者には秘密裏に行われることになったので、彼らは人間の生き血をすすっていると、うわさされたようです。そらそうですね。現代のように科学の時代ではないので、これはからだ、血などといって、配られているのを想像すると、無理もないことだったのかもしれません。
少しパンとぶどう汁についての考え方を整理しておきたいと思います。
宗教改革が必要となった教会の状況には、「実体変化説」といわれるようなパンとぶどう酒に対する理解があったようです。パンとぶどう酒が、イエスさまのからだと血に、実体として変化するという考え方です。これは宗教改革が必要とされた一時期のことであって、初代教会から古代の教会ではこのような理解はなされていなかったのだと思います。また宗教改革後、ローマ・カトリック教会も「カトリック改革」を行なっていますので、こういった考え方は今となってはないというべきでしょう。ローマ・カトリック教会では、実体変化などという主張がされたことは一度もないとも言われたりします。
さて問題は、そうして改革が行なわれたあと生まれることになったプロテスタントでは、パンとぶどう酒をどのように理解することになったのか。
まずルターは、御言葉にそう書いていあるのだから、パンはキリストのからだ、ぶどう酒はキリストの血なのだ、ということです。これに対して、ツィングリは、「象徴的」にパンはキリストのからだ、ぶどう汁はキリストの血である、といったそうです。象徴なので、それ自体には意味を持たなくなってしまいました。
これらに対してカルヴァンという人は、聖霊によって現臨する、といったそうです。御言葉にそう書いてあるのだから、といわれると、現代に生きる私たちとしては、ちょっとブラックボックス的な感じで、受け入れにくいこともあるかもしれません。逆に象徴だ、と言われると、何やらパンとぶどう酒に対しての畏れ、がなくなってしまって、結局精神的なことか、ということになってしまいます。カルヴァンは、そのいずれでもなく、私たちは聖霊さまの現臨のなかに礼拝を献げている、その中で、聖霊によってパンはキリストのからだであり、ぶどう酒はキリストの血なのだ、といったのです。これには、どうしても信仰が必要となります。
実体変化では、たとえ信仰がなくても、それ自体がキリストのからだであり血なのだから、効力があるということになります。象徴では、それ自体には意味がないので、結局、人間のいわゆる自律的な信仰のみが問われることとなり、聖餐式が人間の業になってしまいます。今日は聖餐を受ける気分だから受けるとか、今日は受けたくないから受けない、などという事態まで起こしてしまいます。
これらに対して、聖霊の現臨による聖餐式は、その「式」自体の中に聖霊がお働きなっておられ、その中で、パンはキリストのからだであり、ぶどう酒はキリストの血なのです。信仰に生きる者にとっては、まさにキリストのからだ、血にあずかる時なのです。ですからどうしても信仰が問われます。そこで問われる信仰が、自分の決意ということに土台を置いているならば、ツィングリの象徴とあまり変わらないことになるでしょう。
私たちは、信仰を問うときに、そこでも「自分に対して外的なもの」を拠り所とします。それが洗礼です。洗礼で大切なことは、洗礼を受ける私の決意ももちろん大切なのですが、それ以上に、洗礼を授ける者から「水の洗い」をもって語られた、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けます、という「言葉」です。洗礼も、私の行為、ではなく、神さまの行為であり、人間はそれを「受ける」のです。ですから受洗と言います。
ということで、一般的なプロテスタント教会は、このカルバンの聖餐論を土台としているのだと思います。私が訓練を受けた神学校では、赤木善光先生の論文を頼りとしてカルヴァンの綱要から学びました。他の考え方を否定する必要はありませんし、信徒の方はいろいろな考え方でもよいと思いますが、教会では、基本として語られることははずしてはならないでしょう。つまり、牧師が、これにはご利益があるのやで~、などといってパンとぶどう汁を配ってはいけませんし、逆に、これは単なる象徴だから、あまったら子どもに食べさせてあげて~、などといってもいけません(笑)。たとえそうは言わなくても、誤解を与えるような言葉や仕草は避けるべきでしょう。
式において、ということですが、今日の個所には、
「4 モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。」(4,5)
という言葉がありますが、今日に当てはめるとすれば、12の石は教会を、遣わされるイスラエルの若者たちは執事を現していると考えてもよいでしょう。聖餐式は、教会という場(建物のことではありません)において、牧師によって、そして牧師に遣わされる執事の助けによって行われる、ということでしょう。またそのプログラム、つまり振る舞いや語れることば、そのタイミング、黙祷、時間、いわゆる「間」はとても大切です。
昨日は、宣教師の先生によって本部の掃除とごみ処理が行なわれました。妻はごみの搬送の手続きに関わり、教会からも幾人かがご奉仕くださいました。感謝します。今日も、つづいて掃除に幾人かが出かけてくださいます。