静まりの時 2022年12月14日(水)
エレミヤ17・5~13
7 主に信頼する者に祝福があるように。
その人は主を頼みとする。
8 その人は、水のほとりに植えられた木。
流れのほとりに根を伸ばし、
暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って、
日照りの年にも心配なく、
実を結ぶことをやめない。
(エレミヤ17・7,8)
マタイの福音書5章に、山上の説教と呼ばれる個所があります。「心の貧しい者は幸いです・・・」から始まって8つの「幸い」すなわち祝福が語られています。原文では、幸い、と訳される単語が最初に来ているので、文語訳のように「幸いなるかな・・」と訳すとより原文の心が伝わるのかもしれません。
聖書の中には、山上の説教以外にもいろいろなところに「幸いなるかな・・・」と訳すことが出来ることばが登場します。例えば詩篇第1篇に
1 幸いなことよ
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。
2 主のおしえを喜びとし
昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
3 その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。
(詩篇1・1~3)
今朝のエレミヤ書の言葉は、この詩篇の言葉を思い起こさせます。主により頼む人は、流れのほとり、水のほとりに植えられた木のようである、と語ります。主は「いのちの水の泉」(13)であり、人間はこの泉から沸き上がりあふれ出る「いのちの水」によって生きるものとなる、ということでしょう。
エレミヤは、捕囚の苦しみを前にして、この世の力や知恵に頼ろうとする人びとに向かって、自分たちのいのちの源は神さまご自身であると語るのです。それが神の民イスラエルの人びとにとっては自明のことです。しかしそのように語られなければならない状況があったということでしょう。平時の時に信仰に生きることだけではなく、危機の時にこそ信仰に生きることが出来るであろうか、との問いかけがあります。
このエレミヤ書17章7節は、共同訳2018では以下のように訳されています。
祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
(エレミヤ書17・7、共同訳2018)
新改訳では、「その人は主を頼みとする」と訳されていますが、共同訳2018では「主がその人のよりどころとなられる」。意味は同じように見えますが、主語は全く逆です。人が主を信頼するのか、主がその人の拠り所となって下さるのか。
原文からは、おそらく新改訳のほうになるのだと思いますが、「頼みとする」対象が「主」であるならば、共同訳2018のように、「主」が主語と訳す方が、聖書のこころをより深く伝えているようにも感じます。
私が何かを「頼みとする」ということにおいて、その対象がすべてを創造し今もすべてをご支配されている「まことの神」であるならば、必ず「神さまがそのようにされた」という神の行動が先立つはずです。もしそうでないならば、その対象との関係は常に「私」が「主」である、という状態となっていて、その対象は偶像化しているということでしょう。たとえイエスさま、とか聖霊さま、とか口では言っていても、神さまの行動を先立つものとしていることになっていない、ということであるならば、残念ながら偶像礼拝なのでしょう。「私はイエスさまを寄り頼んでいます!」とパンパカパーンと大上段からいだけだかに言われても、聞く方は、ああこの人は自分に寄り頼んでいるだけだな~、と思うだけですよね。
私が神さまを頼みとしている、という信仰告白をした瞬間に、神さまがそのようにしてくださった、神さまが私の拠り所となって下さったのだ、と神さまの先立つ行動を受け止める、受け入れる、あるいはへりくだる、主人の座を明け渡す、ということをするのです。ここにキリスト教信仰の醍醐味があります。醍醐味ですから、この上なくおいしいのです。栄養価もあって身体にもやさしいのです。健康な信仰生活を歩む日々の糧、いのちの水なのです。
さてさて今朝からこの「静まりの時」も再開することにしました。昨日はオンラインでの理事会もあったので、とりあえず出席しようと思い、ベッドから起きてみました。少しずつ前進です。いろいろとご心配ご迷惑をおかけしました。お祈りありがとうございます。少しのどの痛み、全身の倦怠感、体重の減少といった現在の状況ですが、熱もなくおおむね健やかにしています。隣にある病院の院長先生が往診してくださいました。感謝です。皆さんのあたたかなご配慮、お心遣いをたくさんいただき、着実に快復に向かっています。