神のご性質にあずかる者となる

静まりの時 2022年10月19日(水)
第二ペテロ1・3~11

3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、
6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。
9 これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。
10 ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。
11 このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。
第二ペテロ1・3~11

 神さまは、ご自身の栄光と栄誉によって、私たちを召してくださいました。私たちが召されたのは、私たちの努力や清さや賢さなど、私たちの「何か」によるのではありません。ひたすら神さまの栄光と栄誉、すなわち神さまの輝き、その存在感、全能、によるのです。ですから私たちが召されたということは変わることがありません。私たちの「何か」であれば、その召しはつねに変化や変質の危険にさらされています。しかし神さまによってなされたのですから、変わることがないのです。
 神さまのこの栄光と栄誉を通して、すなわち、神さまの輝き、存在感、全能を通して、私たちには大いなる約束が与えられています。この約束は尊いものです。貴重なものです。どうでもよいものではありません。私たちにとっても貴重なものですが、それ以上に神さまにとっても貴重なものです。私たちはこの貴重さが分かりませんでしたが、主イエスさまの十字架と復活によって、その貴い犠牲によって分からせていただきました。
 いったいこの約束とは何か。それは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵み」が豊かに与えられる、という約束でしょう。
 この尊い大いなる約束、永遠の御国に入る恵みが与えられた目的は、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神さまのご性質にあずかる者となるためです。永遠のいのちの約束が与えられているので、今の生き方はどうでもよいというのではありません。今の生き方が、神さまのご性質に与った者となる、そのために、この尊く大いなる約束が与えられているのです。
 御国という言葉は、支配、ということばである、と説明されます。神さまのご支配に「やがての時」にあずかるという約束は、今の生き方を変える、あるいは変えるように生きる者となる、ということです。また今の生き方が変えられる、ということ、そのものが、永遠のいのちに生きるということである、ともいえるでしょう。大切なのは、今この時、なのです。今この時、神さまのご性質に与る者として生きる、それがキリストを信じた者の生き方である、ということでしょう。

 この神さまのご性質に与った者の生き方とはどのような生き方であるのか。欲望がもたらすこの世の腐敗を免れた生き方とはどのような生き方であるのか。それは、あらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加える、生き方である、ということでしょう。
 これらが備わり豊かになる、それがキリスト者である、ということです。これらが備わり豊かにされたキリスト者は、イエスさまを知る、という点において、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはない、といいます。神さまのご性質に与った生き方は、ますますキリストを知る者とされる道を私たちに備えるのです。イエスさまのことをもっと知りたい、と思うならば、神さまのご性質に与った生き方をすればよい、ということです。あるいは神さまのご性質に与った生き方をせずに、イエスさまのことを知るということは、起こらないのです。

 もしこのような神さまのご性質に与る生き方を備えようとしない、それで平気である、ということは、盲目になっているのだ、といいます。何が見えていないのか。「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっている」のです。自分が罪びとであったということが、まず見えていない、そしてその罪がきよめられたことが忘れられている、すなわち見えていないのです。罪がきよめられていることが見えていない、ということはどういうことでしょう。それは主イエスさまの十字架が見えていない、ということでしょう。
 罪はきよめられなければならないのです。赦し、という言葉は、このきよめ、を含んでいます。あるいはきよめられるという道をもっています。それに対して「許し」は、きよめを含んでいません。汚れを許容することです。神のいのちをもってしかあがなうことのできないほどの罪を、見過ごしにする、いいよいいよ、と許容するということは、結局のところ、イエスさまの十字架をないがしろにすることでしょう。赦しが成り立つ前提には必ず悔い改めがあります。悔い改めの前提には、罪の自覚、があります。自らが罪びとである、ということが認められて、悔い改めがなりたち、そうして真実の赦しがなされるのです。それが主の十字架を信じた私たちがいただいた赦しです。十字架抜きの「許し」か、それとも十字架のある「赦し」か。十字架抜きの信仰生活か、それとも主の十字架を見上げる信仰生活か。十字架抜きの教会か、それとも十字架が燦然と輝く教会であるのか。この違いは大きいです。

 主の十字架における神さまの犠牲が見えない、見えていない。それは近視眼的な生き方である、といいます。近視眼、すなわち近くしか見えない、目の前のこと、目先のことしか見えない生き方である、といいます。その先が見えない、広く見渡すことができないのです。自動車の運転で目の前しか見えない人が運転をしていると、周りの人は迷惑ですね。もちろん本人も危険です(笑)。
 信仰生活は、この近視眼的な生き方から解放されて、広く世界を見渡しながら生きる者となるということでしょう。それは、先ほどから考えました、主イエスさまの十字架を見上げて、神さまのご性質に与る生き方をする、ということです。その生き方に「いっそう励」むのです。「これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。」

 「行っているなら」。信仰によって救われた、私たちは、きよめへの道に招かれ、新しい生き方に招かれました。それは新しい「行い」に生きる者となる、ということでもあります。行いによって救われるのではありません。救われたからこそ、新しい行いに生きるのです。報酬を求めて苦役につくように「行い」をするのではありません。救われた喜びによって「行い」に生きるのです。救われた喜びが、行いに生きる喜びへと導かれるのです。私たちは行わざるを得ないほどの喜びに満たされたのです。ですから教会の奉仕は、すべてその原動力に「喜び」があります。

「このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。」(11)

 きょうもイエスさまの、いつまでも変わることのないご支配の中に生きる恵みを、私たちは与えられています。