益となることを図って隣人を喜ばせる

静まりの時 2022年9月8日(木)
ローマ15・1~6

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。」
(ローマ15・1~6、新改訳2017)

 「私たち力のある者たち」。自分たちのことを「力のある者たち」と言い切っていることに少なからず違和感を持ちますが、続いて語られている「力のない人たちの弱さ」の理解によって、その違和感も少しは和らぐでしょうか。
 「力のない人たちの弱さ」とは、一昨日に学びましたローマ14章2節の「弱い人は野菜しか食べません」という言葉から、考えることになります。ここでいう弱さとは宗教的な戒律やそこから生まれた文化に忠実な人たちということです。縛られているという見方もありますが、本人たちがそれを良しとしているのですから、他人はとやかく言う必要はないでしょう。しかし戒律に忠実に見える生き方は、信仰において強さではなく、弱さである、とパウロはいうのです。
 ですからこの15章でも、「力のない人たちの弱さ」とは、戒律に忠実に生きなければならないと考える人たちの、その弱さのことを指していると考えることになります。であれば、それに対して「力のある者」である「私たち」とは、「偶像にささげられた肉を食べてもどうってことはない」と考えている人たち、さまざまな戒律について「そんなんべつにどうでもよい」と考えている人たちのこととなります。救われた喜びの中にあっていっさいの自由のなかに生きる人たち、ということでしょう。そのような生き方は、もしかしたら世間から見ると、あれでも信仰者か、と言われるようなことになってしまうこともあるかもしれません。そのように揶揄されるような生き方であっても、ひたすら救われた喜びの中に生きている者である、と自分のことをとらえていたということでしょう。そのような意味で「私たち力のある者」と言ったとすれば、それは傲慢な言葉ではなく、むしろ謙遜ではないかとも思えてきます。当時の教会の中で交わされていた「力ある者」という言葉は、私たちの今日抱く印象とはずいぶん違いがあるように思うのです。

 さて問題は、力のある者たちは力の弱い者となりなさい、とか、力の弱い者は力の強い者になりなさい、とは一切語っていないということでしょう。力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担いなさい、と語っているのです。自分が力がある者だと思うならば、それを誇るのではなく、力のない人たちの弱さを担うのです。几帳面に戒律に生きている人をひくくみたり、いわゆる原理主義者だと否定的に考えるのではなく、その人たちの弱さを担おうとするのです。あるいは自分が力のない弱い者であると思うならば、力の強い人たちをうらやんだり、否定的に考えるのではなく、その人たちの強さに自らが担われることを、受け入れる、ということでしょう。自分たちがいわゆる戒律にきちんと生きることができているのは、力の強い人たち、つまりそんなんどうでもよいという方に担われている、ということを忘れないということでしょう。

「そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。」(6)

 ということですから、信仰において違う考え方があっても、お互いに「同じ思いを抱かせて」いただいて、ともに神さまを礼拝しよう、とすすめるのです。そのためには、イエスさまが「嘲り」の中に身を置かれたように、強い者も弱い者もこのイエスさまに倣って「嘲り」を受け止めるという覚悟が必要でしょう。そうして聖書の学びによって忍耐と励ましをいただき、希望を持ち続ける私たちとならせていただくのです。

 2節に「霊的な成長のため、益となることを図って」とありますが、共同訳2018では「互いを築き上げるために善を行い」と訳されています。新改訳で訳されている「霊的」という言葉は原文にはありません。これは建築用語のようなもので、家を建てる、という言葉です。私たちは、聖霊が住んでくださっている神さまの神殿なのですから、その神殿が建て上げられていく、そのような交わりをしなさい、と語っているのでしょう。

 教会では、霊的な成長というと、いろいろと想像がはしりますが、聖書が語るのは、互いの徳を建て上げることであり、互いの違いを受け入れ、ともに神さまを礼拝する者となる、ということです。