イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた

静まりの時 2022年8月16日(火)

ルカ2・41~52

「さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。

イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。

そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。

そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

両親は彼を見て驚き、母は言った。『どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。』

すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。

それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」

(ルカ2・41~52、新改訳2017)

12歳になられたときのイエスさまの様子が記されています。12歳はユダヤの社会では特別な年齢です。それまでは両親のもとに宗教教育を受けてきましたが、この時からひとりで神さまの前に立つ、自分で責任をもって神さまの前に歩む、ということが始まります。毎年のエルサレムへの旅とは違った、特別な意味と気持ちを込めての旅だったのだと思います。

この旅でイエスさまが迷子になるという事件が起こりました。おそらく大勢の人たちの旅なのでそのようなことが起こったのでしょう。両親が気づいたときには一日の時間が経過していました。あわてて探しつつエルサレムに戻り、三日目にようやくイエスさまを見つけることができました。両親はほっとしたことでしょう。

両親が見つけたイエスさまのお姿は少し不思議な姿でした。イエスさまは教師たちの真中に座って、話を聞いたり質問したりしておられたのです。聞いていた人たちは、イエスさまの知恵と答えに驚いていました。

このイエスさまの姿に驚いた母マリアさんは、イエスさまに、どうしてこんなことをしたのかと問いただしました。するとイエスさまは、「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」と答えられました。しかしこのイエスさまの語られた言葉の意味が両親には分からなかった、理解できなかったと聖書は記します。

「イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。

この聖句の理解としては、イエスさまの持って生まれた知恵の豊かさ、まさに人間を超えた存在を現している、というものがあります。しかしこの聖句のなかの「座って」という言葉の意味は、学ぶ者としての姿勢を現しているという理解が一般的なようです。イエスさまはここでは、学ぶ者として、教師たちの言葉に耳を傾けておられる。その聞き方、そうして疑問に思ったことや、もう少し詳しく聞いてみたいということについて、教師たちに向かって問いかけておられる、そこに現れている知恵が、周りの人たちを驚かせた、ということです。聞き方、学び方の知恵のすばらしさ、ということにこの世は驚いた、ということですね。

イエスさまは、まことの神さまでありつつ、まことの人としてこの地に降ってくださいました。それは本当の人間になって下さったということです。それはまた「学ぶ者」となって下さった。学ぶということの努力やへりくだり、地道な道のり、そういったことを学ばれた、そういうところに身を置いてくださった、ということです。

「両親は彼を見て驚き、母は言った。『どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。』

すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。」

イエスさまを発見したときの母マリアさんとイエスさまとの対話。

マリアさんは「お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです」といいました。「お父さん」とはこの場合ヨセフさんのことです。マリアさんのお父さんではありません(笑)。日本人も子どもが生まれると子どもを中心に家族の呼称を変化させますが、聖書も東洋の文化の中にあるのですね。

それに対してイエスさまは「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」と問い返されました。ここでイエスさまは「自分の父の家」と言われています。

ヨセフが父か神さまご自身が父か。それが明らかにされている、という見方もできると思います。イエスさまの父は、まことの神さまなのですね。

また「当然であることを、ご存じなかったのですか」と言われました。当然である、という言葉は、当たり前のこと、ということですが、何が当たり前のことなのか。それは、人となられたイエスさまが、父なる神さまのもとにあって、教師たちから御言葉を学んでいることは、当然のことではないか、ということです。

人として生まれて、なすべきことは、まことの父のもとにあって、御言葉を聞くことである、それが当然のことなのだ、といわれたということです。それを知らなかったのですか、と問われて、両親はそれが理解できなかった、と聖書は記します。

御言葉を学ぶ、聖書の言葉を学ぶ、それは特別なことではなく、人間として生まれたならば当然なすべきことなのだ、そのことが両親には理解できなかった、私たちもそうです。人間にはそのことが十分理解できない。それが人間の罪なのだと思います。

私たちは、いつも「座って」、すなわち学ぶ姿勢をもって聖書の言葉に耳を傾ける者でありたいと思います。父なる神さまは、いつも私たちに語ってくださいます。

日曜日以来、変化球のメールもやって来て、今朝もまた普段より血圧が高く動悸が早鐘のように打ち続けています。なかなかしんどい時間を過ごしています。どうそお祈りください。妻もそうですが、夜に何度も目が覚めて、あまりよく寝られていない感が続いています。発作が起こると次は天国でしょうか(笑)。