静まりの時 2022年6月23日(木)
詩篇10・1~10
「何のために悪しき者は神を侮るのでしょうか。彼は心の中で あなたが追及することはないと言っています。あなたは見ておられました。労苦と苦痛をじっと見つめておられました。それを御手の中に収めるために。不幸な人はあなたに身をゆだねます。みなしごはあなたがお助けになります。」
(詩篇10・13,14、新改訳2017)
悪しき者は何のために神さまを侮るのか。どのような理由があって神さまを侮るのか。何を目的として神さまを侮るのか。神さまが追及されることなどどうせあるわけがない、と悪しき者は心の中で言っていると詩篇は嘆きます。
神さまは私たちのすべてを隅々までご覧になることができ、私たちの暗闇に聖い光を射しこもうとされます。そうして聖く生きる道を私たちに実現しようとされます。しかし私たちは、神にそんなことができるはずがない、と神を侮るのです。
どうしてそんな風に考えるのでしょう。どうしてそのように考えたくなるのでしょう。あるいは考えなければいられないのでしょう。
「悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。『神はいない。』 これが彼の思いのすべてです。」(4)
高慢だからだと詩篇は語ります。私たちは神さまの聖い光に導かれて自己洞察をし、悔い改め、新しく生きるように招かれているのですが、罪びとである私たちは、それを喜びとしません。そうして神さまを侮ります。その心の底には「神さまなどいない」との高慢な思いがあるのです。
神さまを信じて新しく歩む私たちであっても、自己洞察から逃げ、高慢の歩みを続けているとすれば、「神などいない」との思いに生きていることになるでしょう。
現実には神さまはおられるのです。にもかかわらず「神などいない」という思いに生きているとすれば、それは神さまなどいないという信仰に生きているということかもしれません。無神論というのは一つの神学であり信仰なのですが、それは結局のところ自分を神としているということでしょう。
神さまはおられるのです。そして神さまは見ておられるのです。
詩篇は「労苦と苦痛」をじっと見つめておられた、とうたいます。神さまがじっと見つめておられた目的は、その「労苦と苦痛」を「御手の中に収めるため」であると語ります。
労苦と苦痛のない人生はありません。イエスさまはそれをじっとご覧になっていてくださり、それをすべてその御手の中に収めようとしてくださいます。二千年の昔、十字架の上で、全人類の労苦と苦痛を、その御手の中に収めてくださいました。
「不幸な人」はこの神さまに「身をゆだねます」。「みなしご」は、この神さまが助けてくださいます。幸福でない人、寄る辺のない人を助けることのできるのは、苦しみを御手の中に収めてくださる十字架の神さまだけです。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5・3)
今日は沖縄慰霊の日。沖縄返還から50年。ウクライナ情勢も思いながら祈りをともにしたいと思います。