静まりの時 2022年6月22日(水)
ヨブ3・20~26
「なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。彼らは死を待つが、死はやって来ない。隠された宝にまさって死を探し求めても。」
(ヨブ3・20,21、新改訳2017)
ヨブ記について
「ヨブ記はその秘密のすべてをたやすく明け渡して得させるには余りに深く、また入り組んでいる。しかし、知識と、謙遜と、洞察とをもって近づくならば、美にして真なるものに献げられた、この高貴なる神殿の境内に入ることができるであろう。」
(R.ゴルディス、『神と人間の書―ヨブ記の研究』上、74頁)
1,2章は物語であることもあり分かりやすいのですが、3章から最後の方までは、なにか同じことの繰り返しのような文章が続く感があります。しかし、じっくりと読むとこれほどいろいろなことを考えさせられる書物はない、ということでしょう。
簡単にヨブ記の構成を書いておきます。
(1)プロローグ 1章1~2章13節
(2)ヨブの独白 3章1~26節
(3)ヨブと三人の友人たちとの対話 4章1節~27章23節
(4)知恵の賛歌 28章1~28節
(5)ヨブの独白 29章1節~31章40節
(6)エリフの弁論 32章1節~37章24節
(7)主の弁論とヨブの答え 38章1節~42章6節
(8)エピローグ 42章7~17節
(1)プロローグのところで読み終わってしまう場合が多いかもしれませんが、3章以降にこそ醍醐味が隠されています。今日の3章は、ヨブの独白、と呼ばれるところです。ヨブの嘆きといってもよいと思います。神さまは(1)に登場されますが、実際にヨブとの対話は(7)でようやく登場します。それまでは神さまとの対話をヨブは望むのですが、実現しません。この独白も、ひとりごと、なのです。どこにぶつけることもできない苦しみを、どこに向かってか分からないままにここで吐き出している、のです。(7)で神さまが登場されるまで、苦しみをかかえたままでのヨブの信仰の旅が続きます。
「なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。」
苦しみをかかえたまま、それでも生きていることのつらさが告白されます。こんなことなら死んだほうがましだ、と死を望むのですが、死はやって来ない、といいます。日本での年間自殺者数は約3万人、一日にすると90人が自殺しているということでしょう。自ら命を絶たざるを得ない状況や心情、苦しみがあるのでしょう。
ヨブも死を求めます。財を失い、家族を失い、自らも病に倒れる中にあって、生きるよりも死を求めるのです。
しかし
「彼らは死を待つが、死はやって来ない。隠された宝にまさって死を探し求めても」
と独白します。ヨブは死ぬことができなかったのでしょうか。すでに奧さまから言い渡されていますよね(2・9)。その術を持たなかったのでしょうか。ヨブさん、そんなに死にたいんやったら黙ってさっさと死なはったらよろし~、何でわざわざ死にたい、などとこっちにゆうてきはるんやな~、という感じですが、ヨブは死を希求しつつも、死を選ばないのです。
本当に、また純粋に死を求めているのならば、いくらだって死ぬ方法はあります。人に邪魔されたくないならば、ひっそりと死ねばいいのです。しかしそうはしない。誰かに告白するのです。「死にたい」と。死にたいとの告白は、実はそこに「生きたい」との告白があるのではないでしょうか。死にたいとわざわざ口に出すこと、それを誰かに伝えなければいられないことの中には、実は生きたいという叫びがあるのだと思います。
ヨブは本当は生きたいのです。しかしあまりにも苦しみが大きくて、生きることがつらいのです。ヨブに必要なのは、死ではなく、苦しみの解決です。(イエスさまの復活を信じている私たちは、死は絶対者で無くなりましたから、死は解決ではなくなったことを知らされています。)
人間には、いろいろな苦しみがあります。肉体の苦しみ、精神の苦しみ、社会的な苦しみ、そして何よりも霊的な苦しみ。聖書はその苦しみを取り除く方法を教えてくれる書物ではありません。その苦しみを背負って生きる道を教えてくれる書物です。自分の十字架を負ってイエスさまに従う道こそ、いのちを得る道であると語るのです。
苦しみの解決とは、苦しみがなくなることではなく、苦しみの意味を知ることによって、それを自分の人生にとってなくてはならないものとして引き受けることです。聖書はそのことを私たちに得させる書物なのです。
苦しみに意味があるかないか。実は、いわゆる客観的な意味はないといった方がいいでしょう。苦しみの意味というのは、自分で見つけるものです。そういう意味で主観的なものといった方がいいのだと思います。例えば、私であると、急性心筋梗塞になった、という苦しみに対して、神さまがきっと良いお心もってお許しになられたことであろうと信じて、そこから意味を見いだす旅がはじまりました。その見いだすべき意味は、客観的なものではないので、誰かから教えられるものではありません。また何かの教科書的なものに記されていることでもありません。たとえなにかの書物で見出したとしても、それは自分自身が見い出したということで意味があるのだと思います。同じ言葉を見つけても、自分の苦しみの解決として受け取れるかどうかは、やはり自分が決定することでしょう。
では私たちは自力で見出すことができるのでしょうか。そこでこそ、神さまにお出会いしなければならない、と私は思います。ヨブが神さまと対話にたどり着くのに、独白から始まる3章から37章を経なければなりませんでした。3章から37章は、ヨブの苦しみの解決を求めての旅だったのです。この長々とした旅の末に神さまにお出会いし、ヨブは苦しみの解決をいただきました。
また後で読んでいただくといいと思いますが、じつは38章から始まる神さまとの対話において、ヨブの苦しみに対するいわゆる解決は記されていません。ただ神さまご自身が「わたしは神だ」「ヨブよ、おまえはわたしが創造した人間だ」と言い張られただけです。驚くべきことに、その神さまとの対話によって、ヨブは苦しみの解決をいただくのです。これが聖書の語る苦しみの解決なのです。
様々な苦しみに出会うとき、まるで自分が神となって人生を自分の思うようにコントロールしようとすると、その苦しみの中で行き詰ります。しかしまず神さまがおられて、私はその神さまに造っていただいた者であると、信仰をいただく時に、苦しみはそのままであっても、人生を軽やかに生きる者へと変えられるのです。
もし、死にたいと思うような苦しみの中にあるならば、天と地を創造され今も私を愛していてくださる神さまを見上げましょう。もし、死にたいと言う友がいるのならば、その友が神さまにお出会いすることができるように祈りましょう。共感することは大切ですが、まちがっても「共振」しないようにしましょう。共振は、狂信を生み出し、そして妄信へと迷い出ることになります(笑)。