わが神 わが神

静まりの時 2022年6月21日(火)
詩篇22・1~5

「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」
(詩篇22・1、新改訳2017)

 イエスさまは十字架上で七つの言葉を語られたと言われます。そのうちに一つに

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。『この人はエリヤを呼んでいる。』」

(マタイの福音書27・46~47、新改訳2017)

 イエスさまのこの言葉を聞いた人びとは、「エリヤを呼んでいる」と言った、と聖書は伝えています。「エリ」という発音の言葉を「エリヤ」と聞いた、ということでしょうか。昔レインボーというロックグループの「アイサレンダー」という楽曲がありましたが、「愛されんだ~」と聞いていたような思い出があります。つまり聞いていた人にとってはこの言葉は、自分たちの母国語ではなかったということでしょう。イエスさまは、当時のユダヤ人が使っていたアラム語をお話しになっておられたと言われます。ヘブル語とアラム語はすこし親せきのような言葉で似ているのですが、この言葉だけヘブル語で叫ばれたということでしょうか。それは詩篇を朗読された、ということでしょうか。「エリ」はヘブル語で、「レマ、サバクタニ」はアラム語である、と言われます。(マルコに記されている「エロイ」はアラム語と言われます。)
 いずれにせよ、最初に福音書を呼んだ会衆はこれが旧約聖書の言葉であることを知っていました。聖書はこれが旧約聖書の言葉であるということを明確にしようとしています。またこの言葉はユダヤの人びとがよく歌った賛美だったことでしょう。イエスさまは十字架の苦しみの中においてさえ、聖書の御言葉を歌っておられたのです。

 「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエスさまは、十字架の苦しみの中にあって祈っておられました。わが神、それは二人称の呼びかけの言葉です。苦しみの中にあって「あなた」と呼びかけることができる、その信仰の道を明らかにしてくださいました。私たちも絶望の中にあってもなお神さまに向かって「あなた」と呼びかけることができるのです。
 詩篇は、神さまはそれでもお答えになって下さらない、と続いていますが、神さまは本当にお応えになっておられないのでしょうか。私はこの沈黙こそ、神さまの応え(答え)なのではないかと思います。

 苦しみに耐える(堪える)ということは、難しいことです。だれでも楽な道を求めたいものです。しかし人生には苦しみがつきものです。最終的には死を迎えます。人生の祝福は、この苦しみの時をどのように受けとめ、過ごすかにかかっているのではないでしょうか。イエスさまはひたすらその苦しみを受け止めてくださいました。それが十字架だったのだと思います。その主を見上げるとき、私たちもそれぞれに与えられている十字架を私たちなりに担わせていただくことができるのではないでしょうか。

 長女がしばしば孫の写真を「みてね」というシステムで送ってきてくれます。先日送られてきた写真にこんなものがありました。4歳のお兄ちゃんは、いま絵本の読み聞かせにはまっています。文字を覚えていくことが楽しいのでしょう。聞かせる相手は1才と半年の妹です。妹を小さな椅子に座らせて、その前で絵本を広げ、一所懸命に読み聞かせます。しかし妹は、お兄ちゃんの絵本を取り上げようとしたり、自分で頁をめくろうとします。お兄ちゃんは自分の理想とする読み聞かせのスタイルがなかなか実現しません。ちょっと離れてほしいということだったのでしょう。妹の椅子を自分から離します。しかしすぐにお兄ちゃんの邪魔をします。とうとう部屋の端っこの方に妹は座らされることになりました。お兄ちゃんは反対側の隅っこに座ります。これで安心して自分のスタイルの読み聞かせが実現しました。それを見た娘は「ちょっと遠いな~」。

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 人生が自分の思い通りにいかないものであることを、人間はいつごろ学ぶのでしょうか。小さいころから少しずつ学んでいくのかな、と思いました。小さな絶望、小さな苦しみ、困難を経験していくこと。それがやがてやって来る人生の絶望に耐える力を育むのではないでしょうか。私たちは毎日の苦しみを通して小さな「死」を体験しているとある方は言われました。そうして最終的な「死」の備えをしているのだ、と。親の責任は、この小さな絶望を少しずつ経験させてあげることなのだと思います。
 現代は、子育てというと、少しでも子どもに楽をさせる、便利を経験させる、苦しみを取り除く、という方向にあります。子どもの育ちにくい時代なのかもしれません。私も含めて親が、すでに楽、便利を求めることを善とする中にありますから。

 自治会長をしたり、人権協議会の事務局長をしたり、PTA会長をしたり、団体の責任をいただいたりといった時に、いろいろとつらい経験をすることもありましたが、その中で一番つらかったことは、同じ土俵に立っていると思っていた人が、振り向けばいなくなっていた、ということだったかなと思います。二階に上げられて梯子をはずされた、飛び来る矢に向かって前進している時に、後ろから味方の矢が飛んできた、という感じです。
 苦渋の決断をした結果、問題が大きくなった時、ともに決断したと思っていた仲間の「自分は反対だったんですよ」という言葉。一所懸命に問題に対応していた時に、完全な安全地帯にいる人の「あのやり方ではあかんな~」との言葉。人間はみな自分だけは苦しみを背負いたくないのだと、心しなければならないことでした。苦しみを背負いたくないとき、人間は八方美人の道を歩もうとします。自分は誰とでも平和な道を歩んでいるのだとしたいのです。それをある人は、賢明なこと、賢いこと、優しいこと、優れていることと言うかもしれませんが、私はそうではないと思います。
 本当に賢明な人は「懸命」な人。本当に優しい人は、憂いを背負う人なのだと思います。

 しかしそれとは反対に、実際は喜びの経験も数多くいただきました。一所懸命、一つの所に命を懸けるように本当に賢明な人、賢い人、またどこまでも苦しみを共にしようと覚悟していてくださった本当に優しい人も神さまは備えていてくださいました。
 いま教会に起こっている問題に、役員のお一人びとりはそれこそ懸命に、そして本当の優しさをもって全力で対応していてくださいます。私はこの教会には本当に素晴らしい役員が与えられている、と神さまに感謝しています。また団体の先生方からも、どこまでも全力でサポートします、とのメールをいただいています。本当に感謝です。いまだに梯子がはずされることや、後ろからの矢を気にしなければならないのが残念ですが、こればかりは祈るしかありませんね。神さまが最善をなしてくださるでしょう。

 今日は本部の作業に幾人かの方々が出かけてくださいます。感謝です。