静まりの時 2022年2月15日(火)
マルコ9・42~50
「・・・塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」
(マルコ9・50、新改訳2017)
キリスト者は、イエスさまによって塩気をつけられ、塩気を保ち続ける歩みである、といいます。塩気、ここではきよく生きる、十字架を負って主に従う、みこころの道を歩む、愛に生きる、ということでしょう。49節には、塩気は「火」によってつけられる、ここではゲヘナ、すなわち地獄の火によって、塩気がつけられ保たれるというのです。
自分自身のうちに塩気を保つこと。すなわち自分自身がつまずかないこと(43,45,47)、そして同時に互いに平和に過ごすこと。つまり互いにつまずかせ合いをしないこと。自分と自分との関係、自分と他者との関係。この二つの関係は深く結びついています。おおよそ他者との関係に問題を起こす時、自分自身との関係に問題が起こっているのです。自分との平和がない、すなわち自分自身と戦争状態にある、自分を受け入れられない、ありのままの自分を受け入れられない、着飾った自分しか受け入れられない、そんな状態が、他者との関係に大小の問題を生み出していく。もしこの御言葉の通りに互いに平和に過ごそうとするならば、まず自分自身をつまずかせない、もし自分の手が、足が、目が自分自身をつまずかせるならば、それらを切り捨てる。ずいぶん恐ろしい言葉です。文字通りにとってはいけない言葉の一つです。切り捨て、えぐり出すように、それらとの戦いをしっかりとしなさい、ということでしょう。克己、己に克つということが、他者との平和な歩みを生み出す、というのです。
さてこの42~50節の中で、44、46節は欠如しています。もともとの聖書は現存していませんので、現在の聖書は膨大な量の写本から校定本が作成され、それが各国の言葉に訳され、いま私たちは読むことができる、ということになっています。写本は信仰者の手によって写し取られてきた貴重な資料ですが、人間の限界を持っています。どうしても写し間違いや、思い込みがそこに含まれているのです。それらを研究していく校定の作業によって、こうであったであろう、という聖書が、今の聖書なのですね。だからといってもともとと違っているのではないか、と思うのは間違いで、おそらく他の古文書、ソクラテスやプラトンなどと比べると、その写本の量からして、聖書の確かさは群を抜いています。例えばプラトンの現存写本数は200ほどですが、旧約聖書、新約聖書の現存写本はそれぞれ1万を超えているといわれます。写本でしか残っていないのだからイエスさまって本当に存在したの?などというならば、プラトンは影も形もありません(笑)。
それはさておき、44、46節はおそらくもともとの聖書では欠如していたであろう、ということで削除されているのですが、欄外の中に「異本に48節と同じことばを加えるものもある」と書かれています。
まず、現在の研究では、44,46節は、もともとの聖書にはなかったであろう、との結論を持っているのですが、しかしその結論も「完全」ではないということをここに真摯に記している、もしかすると将来の研究によっては、やはり44、46節はあったのではないか、ということになるかもしれない、つまり完全な結論は将来の研究者にゆだねる余地を持っている、ということです。ここに聖書の言葉に向かう信仰者たちの真摯な姿勢が見られます。これは大切なことである、と私は思います。人間はみな時代の限界の中に生きています。そのことを忘れない、その限界を知っている、それが研究者、そして信仰者の姿勢です。神にならない、ということですね。
そのうえでこの44,46節があったら、と想像してみると、交読文のような文章になるのではないかと思えてきます。つまり司会者が、42,43、会衆が44、つづいて司会者が45、会衆が46、司会者が46、会衆が48、とこんな風に想像するのです。そうするとこの個所も、礼拝の中で読まれたのだろうとの想像が膨らみます。もちろん聖書はすべて礼拝の中で読まれたものですが。
そして最後に「互いに平和に過ごしなさい」という言葉によって会衆は送り出されるのです。
現在のローマ・カトリック教会のミサ式次第によると、礼拝の終わり、つまり「閉祭」の次第は次のようになっています。
37、お知らせ
38、派遣の祝福
〔司祭〕主は皆さんとともに。
〔会衆〕また司祭とともに。
〔司祭〕全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。
〔会衆〕アーメン。
39、閉祭のあいさつ
〔助祭〕感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに。
〔会衆〕神に感謝。
40、退堂
私たちプロテスタントの教会も、頌栄、祝祷で終わるのですが、それはこの形に倣っています。前に立つものが、まるで教祖さんのように集まる人たちに祝福を語るのではありませんが、しかし会衆の代表として神さまに祝福を求めるのでもありません。お互いに平和を祈るのが、祝祷の本意です。礼拝は交わりなのです。そして交わりのうちに新しい一週間が始まるのです。