静まりの時 2022年2月12日(土)
申命記5・1~6
「・・・私たちの神、主はホレブで私たちと契約を結ばれた。主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである。・・・」
(申命記5・2,3、新改訳2017)
「ホレブ」とは、モーセが神さまとお出会いした山(出エジプト3章)であり、十戒の与えられたシナイ山のことでもあります(出エジプト19・18)。のちに預言者エリヤが神さまに養われた場所にもなりました(1列王19・18)。聖書ではホレブの山もシナイ山も同じ意味で使われているようです。つまり神さまとお出会いした場所であり、契約を結んでくださった場所という意味でしょう。
かつてモーセを通して、モーセによってエジプトの地を脱出したイスラエルの民。そしていま40年の荒野の旅を終えようとしているイスラエルの民。民は代替わりをし、今その子、孫たちが目の前にいます。モーセはその民に向かって、かつて結ばれた契約は「私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである」と語りました。
「集合人格概念」という言葉があります。人格というと一個人の持つものであり、その人を特定するものであり、自律的意思を有し自己決定権を持っているもの、ということでしょう。他と区別するためにも大切なものです。私たちはみなそれを持っていますし、さまざまな契約の主体となることができ、またそこに人権も成り立つのだと思います。これが集団となると本来は人格は自然人を他と区別することなので、そこに人格を有することはないのですが、しかし教会や団体は、法人格を取得することによって一つの人格を持つことができ、さまざまな権利主体となることができます。法において人格を持つとするという約束事ですね。少しそれと似ているかもしれませんが、イスラエルの民は、この集合人格を持っている、あるいは神さまに持たされたということでしょう。
教会もこの集合人格概念によってとらえる部分があるのだと思います。
毎週礼拝において使徒信条と主の祈りを告白します。使徒信条と主の祈りの違いは、もちろん信仰告白と祈りの違いではありますが、その文言に使徒信条は「我は」つまり「私は・・・信じます」、とあります。それに対して主の祈りは「我らの」つまり「私たちの」と祈ります。主の祈りが集合的、共同体的であるのに対して、使徒信条は個人的、あるいは人格的といっていいと思いますが、そんな感じがします。誰も信じなくても私は信じます、という強い個人的な意志、独立した人格的な意志がそこに在るように思います。それに対して主の祈りは、共同体的といいましたが、そこに交わりがある、といことでしょう。いずれも大切なことです。
使徒信条は個人的な意志が強調されていると言いましたが、しかしこの使徒信条は、二千年の教会が大切にしてきた信条の一つで、内容は三位一体の神さまへの信仰の告白であり、特に異端との違いを鮮明にするためにも重要な信仰告白の文書です。これをみんなが信じるから私も信じるということではなく、たとえだれも信じることがなくても私は信じます、と告白するのですが、しかしこの告白する「私」は、決して個人主義の中にある私ではなく、教会という共同体の中にある私である、ということも大切なことでしょう。そういうところにも、集合人格的な考え方が存在しているのだと思います。
聖書の約束は、かつて私とは他者である人びとと結ばれた神さまの契約ですが、しかし今生きる私、そして私たちと結ばれた契約でもあるということ。教会共同体は、いま世界に生きるキリスト者の群れですが、そのような「横」のつながりだけではなく、二千年の教会、その代々(よよ)に生きたキリスト者の群れ、いわゆる「縦」のつながりの中にもあります。教会は「キリストのからだ」(エペソ1・23)です。そのからだに私たち一人ひとりはつなげられているのです。救われるということは、キリストのからだという一本のぶどうの木(ヨハネ15章)につなげられるということであり、救われた一人ひとりは、その木の枝に芽生えた「新芽」である、ということです。ですから救われてきよめられて、その新しいいのち、永遠のいのちに生きるためには、このからだにつながっていなければなりません。すなわち教会につながっていなければ、救われた新しいいのち、永遠のいのちに生きることはできないのです。キリスト教信仰は、個人的なものですが、決して個人主義的なものではなく、共同体の中にこそ成り立つものです。だからこそキリスト教は愛の宗教ということができるのです。
主の名を呼ぶ者はだれでもみな救われる(使徒2・21)のですが、その信仰を教えてくださった方がいるのですから、そこにあるのは決して個人主義的なことではありません。聖書を読んで信じれば救われる、教会という組織はいらない、という理屈もありますが、そもそもその聖書を写本という形で継承した教会があり、それを翻訳した教会共同体があってこそ聖書を読んで信じるということが起こっているのです。まるで私の家はオール電化だから二酸化炭素を排出していない、と主張しつつ、その電力が膨大な二酸化炭素を排出している火力発電に負っているということを考えないようにしているような感じです。ちょっと例が悪いですが(笑)。
教会はいわゆる必要悪というようなものではなく、なくてはならないキリストのからだなのです。その共同体の中にあること、共同体に結び付けられていることを思うと、大きな安心と感謝が生まれます。私は毎週礼拝で賛美を献げるときに、この賛美歌も多くの先輩のキリスト者も歌ったのだな、そして今は天に帰った先輩の兄弟姉妹たちも共に歌ってきた、そして今も歌っているのだな、と思います。たとえたった一人で歌うことであっても、無数の人びとによって形づくられている聖歌隊と共に歌っていることを思うと胸が熱くなります。