静まりの時 2022年1月14日(金)
「・・・敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。・・・」
(1テモテ4・6~10、新改訳2017)
「敬虔」、新共同訳では「信心」と訳されていました。共同訳2018になって「敬虔」と訳されるようになっています。
イエスさまを信じて歩む信仰生活は、「経験のために自分自身を鍛錬する」歩みです。鍛錬、鍛えるということですね。
一方的な恵みによって救われ神の子とされたのですが、同時に神の子になる歩みがはじまりました。そこには「鍛錬」が必要なのです。宗教における鍛錬というといろいろと想像しますが、ここでは「敬虔」のため、敬虔という目標、敬虔という道筋を鍛錬するのです。
精神と肉体を分け二元論的に、精神を鍛えるということをいっているのではありません。敬虔には必ず「からだ」を伴います。肉体の鍛錬ということだけではなく、肉体も精神もすべてを包括的に、全体的に鍛錬していく、信仰的に鍛錬していく、そういう歩みが信仰生活なのです。
敬虔と訳されている言葉は、原文では「エウセベイア」、「エウ」(よい)と「セベイア」(神を敬う、拝む)という言葉がくっついて出来ています。つまり倫理的、道徳的に立派な歩みをするというのと少し違って、神さまを大切に、神さまを敬い、神さまを礼拝するという意味です。ですから、敬虔のために自分自身を鍛錬する、ということは、神さまを礼拝することにおいて自分自身を鍛えていく、ということです。
礼拝で、よく「恵まれた」という言葉を聞きますが、それはある意味で大切なことではありますが、自分が自分の主観的な気持ちにおいて恵まれたという判断を礼拝に対して行っている、ということでもあります。どこか映画や演劇を見に行った観客の言葉のように聞こえてきます。しかし、神さまを礼拝するということは、そういう自分が中心となっての感想で判断することとは、どうもなじまないことではないでしょうか。
真実の礼拝をささげることができたであろうか、いのちまでささげてくださったお方の前に心を込めて礼拝をささげることができたであろうか、と自らを問う、ということの方が礼拝をささげるということにおいてはなじむのではないだろうか、と思えてきます。天国に行くまで百点満点はないのですが、しかし毎回の礼拝を心から主イエスさまを喜ぶときとしたいと思います。
昨日は、退院後四回目の診察日。いつものように採血、心電図、胸部レントゲン、主治医の診察とお話しがありました。数値も良好とのこと。感謝です。入院時、二回目のカテーテル治療を終了した後に、退院後3か月ぐらいしたらまたカテーテルをしましょう、と言われたのですが、昨日の診察で、前回の一年後、つまり今年の7月に行うことになりました。また少し咳が出る(薬の副作用ですが)というと種類を変えてくださることになり、また、別の薬ですが、いままで一般的な量よりも少なく処方されていたものが、徐々に増やされていくことになり今回から1.5倍の量を飲むことになりました。
胸部レントゲン時に、ボタンなどが付いたシャツは脱ぐのですが、Tシャツは着たままで撮影していただけます。が、昨日は、「これ、ちょっと映り込むかもしれないので、これも脱いでいただきましょう、寒いですが、よろしく」と言われました。そんなこともあるのですね。たしかに「終身刑」と映り込むと、これは診察以前の問題になりそうです。

末娘が着なくなったからお父さん着いひんか~、といってくれたものでした。今度の診察からは下に着るものを考えたいと思います。
午後いつものウィーキングに出かけたのですが、あまりの寒さに、少し短い距離を歩くことにしました。体調はすこぶる良好です。