静まりの時 2022年1月13日(木)
「・・・キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。・・・」
(ピリピ3・17~4・1、新改訳2017)
「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる」とパウロは語りました。十字架の敵というと未信者のことを想像しがちですが、おそらく教会の中のことを語っているのだと思います。イエスさまを信じて教会に集う人たちの中に、十字架を敵として歩む人たちがいるというのです。そしてそれは自分以外の人を指しているというよりも、自分の中に十字架を敵として歩もうとするものがあるのではないか、との問いを私たちに投げかけているのだと思います。
ピリピ書の中で特徴的な言葉は「喜び」だと思います。喜びをもって生きることを勧めているのだと思いますが、十字架に敵対するということは、この喜びを見失ってしまうということなのかもしれません。
十字架に敵対しない、喜びを見失わない、そのためには「私に倣う者となってください・・・私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」とパウロは語ります。大胆な言い方だと思いますが、信仰生活は目に見えない神さまを信じる生活なので、そこでは目に見える兄弟姉妹は、大切なお手本であるということでしょう。
詩篇42編に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます」とあります。この谷川とは「ワディ」であるといわれます。雨季には河であっても乾季には地表から見えなくなる川です。鹿は地中に流れる川をかぎ分け、やがてその地中深くに流れる川が地表に現れているオアシスにたどり着きます。そうしていのちの水を得ることができます。一匹の鹿がそのように水を慕い求めている姿が、水を求めてさまよっている他の鹿の目に留まります。他の鹿は、その鹿のうしろを歩みます。やがて鹿の行列ができます。その鹿の行列を見て、また多くのさまよう鹿が集まって来るのです。鹿の行列は、地中深く流れる見えない川を、地表に現しているのです。
もし最初の一匹の鹿が迷ってしまったら、あるいは間違った道を歩むならば、その行列は水にたどり着く行列でなくなり、結果さまよう鹿たちは水にありつけず滅んでしまうでしょう。私が喜びをもって歩む、十字架の敵として歩まない、ということは、私だけの救いに関わることではなく、多くの人の救いに深く関わることであり、とても大切なことなのです。
さてここに「卑しいからだ」と「栄光に輝くからだ」の二つのからだが記されています。救われるということは、この「栄光に輝くからだ」にあずかる者となる、ということです。罪赦されることの大切さとともに、栄光に輝くからだに変えられるという希望は、救いの中心的なことです。
今日も天の御国を見上げて、そこが私のふるさとであることを確認し、地上では旅人であることを見失うことなく、喜びをもって歩みたいと思います。
今日は二か月ぶりに診察があります。退院して五か月が経過しました。生かされていることを感謝しています。