見えない方を見ているようにして

昨日は、主の日、礼拝の日でした。感謝です。久しぶりに母が守山から来てくれました。大津に住む叔母といっしょに。叔母は「たかひろちゃん、だいじにしいや」と言ってくれました。昼は妻が二人を近くのレストランに連れて行ってくれました。私はひとりでゆっくり昼食です。昨日作った「無塩カレー」を食べました。無塩カレーは、たぶんあんまりおいしくないのだと思いますが、「これがおいしいというものだ」と自分に言い聞かせながら・・・。

礼拝でもお話ししていましたが、いくつか飲んでいる薬の中に血圧を下げる「エナラプリルマレイン」というのがあります。病院で最初に処方されるときに薬剤師から、副作用として空咳が出ます、と言われていました。当初はそうでもなかったのですが11月に入って頻繁に出るようになりました。礼拝中も咳をしてしまうので、皆さんに申し訳ないなと思って礼拝でお話ししてしまいました。すこしアレルギーもあるのかもしれませんが、ご心配のないように・・・。

礼拝では子ども祝福式が行われました。説教の前に子どもたちに礼拝堂の前に立っていただき、牧師が祈りました。従来なら講壇から会衆席に向かって立ってもらい、一人ひとり紹介をするところですが、ライブ配信の関係もあって、子どもたちには前に向かって立っていただき、祈りの時を持ちました。お祈りの前にルカの福音書2章52節のお言葉を読みました。まことの神さまであるイエスさまは、まことの人となってこの地を歩んでくださいました。まことの人としての歩みは、このようは歩みである、と自ら示してくださいました。

イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

ルカの福音書2章52節

まことの人としての歩みは「神と人とにいつくしまれ」てなされるものであり、そうしてこそ「知恵が増し加わり、背丈も伸び」ていく、つまり心身ともに豊かに成長していくのだ、というのですね。「いつくしまれ」と訳されている言葉は以前の訳では「愛され」となっていました。子どもたちには、神さまからの愛、人からの愛をいっぱいに受けて成長していってもらいたいと祈りました。

礼拝後は役員さんからの報告がありました。本来なら11月第一日曜日は成長懇談会で信徒全体会が行われる日ですが、今年は新型コロナウイルス感染症の関係もあり、信徒全体会は行いません。その代わりにあらためてこの1月からの教会の歩みをまとめて報告していただきました。私の心身ともにの弱さで教会の皆さんに多大なご心配やご苦労をおかけしたなと、本当に反省しました。またあたたかい配慮にあふれた報告を感謝しました。片肺の飛行機のようなものなので十分は奉仕ができないのに申し訳ないな、と恐縮しました。

今朝のデボーションテキストには以下の聖句が記されていました。

信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。

ヘブル人へ手紙11章27節

この「忍び通した」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語で「カルテレオー」といい聖書の中でただ一カ所ここにのみ使われている言葉です。「強い」といった意味を持った言葉です。共同訳聖書2018では「揺らぐことがなかった」と思い切った訳がなされています。忍耐するということは、不動のものとなる、揺らがない生き方をする、それが目に見えない方を見て生きるキリスト者の歩みだ、あるいは、揺らがない生き方をするためには、目に見えるものではなく、目に見えないお方を常に仰ぎ見るのだ、ということでしょう。常に揺れ動いてしまう私としては、大切な言葉だな、と思いました。

今日もいい天気ですね。昨日も夕刻にウォーキングに出かけました。秋の夕暮れは影が長くなります。

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立冬ですかあたたかい日が続き、金木犀が再び花をつけています。

これはアジサイでしょうか。

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