神はご自身の臨在によって生み出される静かな心の平安

静まりの時 2021年10月8日(金)

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

(フィリピの信徒への手紙4章7節)

神はご自身の臨在によって生み出される静かな心の平安によって、私たちの内にある恐れの心を征服してくださいます。
・・・
神と主イエス・キリストを信じることによって、心が平安にされることは、私たちにとってこれ以上ない喜びなのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、397頁f

「そうすれば」とは前節の「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」を指すと考えられますが、さらにさかのぼって4節から6節の命令形となっている動詞のすべてを指していると考えてもよいと思います。つまり「常に喜ぶこと」「広い心をすべての人に知られること」「思い煩わないこと」「感謝を込めて祈りと願いをささげること」「求めているものを神に打ち明けること」。いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、すべての事を感謝すること、そのような証しの生活に生きること、です。第一テサロニケ5章16~18節と重なりますね。
そうすれば「あらゆる人知を超える神の平和」が「わたしたちの心と考え」を「キリスト・イエスによって守るでしょう」といいます。
新共同訳で「平和」と訳されている言葉は新改訳では「平安」と訳されています。原文では同じ言葉です。しかし日本語で「平和」というと、私と他者との関係に戦争がないことを思います。それに対して「平安」というと私の心の中に戦争がない、私と私の間に戦争がない状態を思います。いずれも大切なことであり、その二つは比例しているわけではありませんが、深く結びついていると思います。スポルジョンはこの平安は「これ以上ない喜びである」といいます。たかが心の平安とは侮れない、人間にとって平安こそ人生のテーマである、というのです。確かにあらゆるものに満たされていても平安がないならば、虚しい、空っぽと同じですね。
平和(平安)が私たちを満たすと続きそうなところですが、聖書は平安が私たちの心と考えを「守る」、「キリスト・イエスによって守る」と言います。平安こそ私たちの心と考えを守るものである、私たちの心と考えを守るのは、平安であるというのです。それも、私たちの心の持ち方というのではなく、イエスさまがそうしてくださる、というのです。ことは信仰の問題です。
身体の病もつらいものです。しかしそれとともに身体がどんなに健康でも心や考えが病んでいるというのはつらいことです。身体の健康とともに人間は心や考えの健康を保つことを大切にしなければなりません。さまざまな処世術、カウンセリング関係の情報なども有効だと思いますが、主イエスさまにあって喜び、感謝、祈りに生きることが、心や考えを守ってくれると聖書は語ります。
もし平安がない、心が病んでいる、考えがゆがんでしまっている、不健康な状態にあるとするならば、主にあって喜び、感謝をささげ、祈ってみればよいのです。そのような静まれる場所、時間を見つけ大切にしましょう。わずかの時間であっても、そのような時と場所を大切にするならば、おのずと主イエスさまが平安を与えてくださいます。そして隣人たちと平和に生きる道をひらいてくださいます。

昨日はワクチン接種による発熱もおさまり、健やかに一日を過ごしました。今朝の脈拍も以前の状態におさまり50ほど、血圧も上が100、下が60となりました。体重もいつも通りです。と、こんな身体の状況を書いてもどうかと思いますが・・・。
毎朝体重を測るように指導されるのには理由があって、心不全のばあい、心臓の機能が落ちると全身に水が溜まります。それをいち早く察知できるのが足のむくみと体重だそうです。で、おかげさまで100グラム変化するだけで一喜一憂することになっています(笑)。

昨日は夜にBS・NHKで、iPS細胞についての番組を放映していました。少し観ただけですが、多くの病気に有効な治療法の発見につながるそうで、はやく治療法が確立され安全性が確保され実用化されるといいなと思いました。
今日は10月8日で「寒露」、今日から晩秋となります。それにしては今日も暑くなるそうです。

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