静まりの時 2021年9月22日(水)
神は必ずしも私たちが求めるものを文字どおりにすべて与えることはありません。しかし、神は私たちにとって最も良いと思われるものを与えてくださいます。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、374頁f
パウロは「弱さを誇る」と語ります。強さではなく弱さを誇ると語ります。弱さのうちにこそキリストの力が完全に現れる、との主の御声を聞いた、主イエスさまがそのように言われたので、自分の弱さを誇りにして生きるのだ、と言います。
弱さを誇るというのは、決して自分の弱さ、足りなさに開き直って生きるということではありません。また自分の弱さにふさぎ込み、そこにうずくまって生きるということでもありません。大いに喜んで自分の弱さを誇るというのですから、それ自体に喜びがあるのです。それは自分の弱さを受け容れるということであり、その自分の弱さを喜びをもって見つめ、そんな自分をいつくしむということであり、その弱さの中に主の愛や恵みを見いだすということです。
弱いけれども喜びに生きるというのではなく、弱いからこそ喜びに生きるというのです。なんと自由な生き方でしょう。
私たちは自分の弱さにとらわれて生きてしまうということがあります。過去の失敗による自己嫌悪、理想と現実の違いの中での不満、などなど。がっかりして生きる力を見失います。また逆に自分を強く見せようとしてあちらこちらでぶつかってしまいます。いずれも不自由な生き方でしょう。
弱さの中にこそ主の恵みが十分に発揮されるのです。もし自分が強ければ、力に満ちていれば、優れていれば、たしかに自分の力は発揮されるのかもしれませんが、神さまの力が発揮されることはありません。
弱さを誇って生きるのは、キリストの力が私をおおうため、新共同訳では、キリストの力が私の内に宿るためである、と言います。弱さを誇ることができないならば、キリストの力に覆われる、キリストの力が内に宿るということにならないのです。成長したキリスト者とは、自分の弱さを誇ることのできる人、大いに喜んで自分の足りなさや愚かさを受けれいている人ということができるでしょう。
むかし牧師会で、失敗談を語る、というコーナーがありました。私は大好きな時間だったのですが、残念ながらいつの間にかなくなってしまいました。教会ではどうでしょう。自分の弱さが自由に、健やかに語られているでしょうか。もしその逆で、自分の強さ、賢さ、成功談、霊的な優位性などが語られているとすれば、あるいは語られてはいないとしてもそのような価値観が重要視される教会であるならば、あまり居心地のよいものではありませんね。
弱さに開き直るのではなく、弱さをしっかりと受け容れて生きる自由なキリスト者でありたいと思います。主イエスさまはパウロに語られたように私たちにも語ってくださいます。
昨日は、自転車で銀行へ。着いたとたん持参した通帳が別のものと気づき二往復。青空の中、田んぼ道を選び二往復しました。良い運動になりました。
早朝から教会堂の除草作業にハンナの花畑の姉妹方がご奉仕くださいました。妻は午前に本部の除草作業、清掃作業へ。教会から兄弟姉妹がご奉仕くださり、また長浜から先生ご夫妻も駆けつけてくださったと妻が感謝していました。
昨日の十五夜は8年ぶりの満月ということでしたが、あいにくこの辺りは霧雨が肌にあたるような曇り空でした。で、月見饅頭は室内で食すということになりました。
自動車、3台目が完成しました。2018年にフルモデルチェンジをして4代目のジムニーが現在新車で走っていますが、これは1981年から1998年まで発売されていた2代目のものです。モノコックボディーが主流となった中で、ラダーフレームのジムニーは魅力ある車です。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(2コリント12・9)