見えない霊の世界

静まりの時 2021年9月21日(火)

隔ての幕は取り除かれ、私たちには見えない霊の世界について彼らは語るのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、372頁f

パウロの語る、第三の天に引き上げられた「彼」とは、1節からパウロ自身のことであると理解するのが一般的でしょう。しかし、パウロは自分自身の霊的な体験を語り、天国の確かさや自分自身の霊的な豊かさを主張するのかというとそうではなく、そのような豊かな霊的体験をいただいたけれども、私自身は「弱さを誇る」というのですから、結局は霊的な体験を主張することは無意味である、それよりもキリスト者は自らの弱さを受け容れ、そこにこそある神さまの恵みを語るのだ、ということを言っているように思えます。
私たちの目には見えない神さまを私たちが信じることができるように、神さまは見える神となってこの地に来てくださいました。それが主イエスさまです。ですから私たちが神さまを信じるという時に、そこにはイエスさまのご存在、そしてイエスさまの十字架と復活が語られていなければ、真実の神さまを証しするということにならない、ということでしょう。さまざまな宗教で、神を見た、といわれるのと、キリスト者が、神を見た、というのとは、そこに主イエスさまの十字架と復活があるかないかの違いがあるということです。パウロが続いて語る大いに弱さを誇るという言葉の中に、祈っても取り除かれない棘を耐え忍ぶ姿の中に、十字架と復活が語られているのを発見します。
この文脈を理解したうえであらためて4節を読んでみましょう。パウロは「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」を耳にしたと言います。パウロは特別な使徒ですから、このような特別な体験をしたと理解してよいのだと思いますが、しかし程度は違いますが、キリスト者であるということは、すべての者がこのような経験をしているということではないかとも思います。私たちは日々さまざまな体験をしていますが、その中に神さまからの特別な交わりの恵みをいただいています。森有正が、体験はすべての人がすることができるが、経験はそうではないというようなことを語っていますが、体験が経験となる。一つの体験が、神さまとの特別な恵みの時であったと、証しの経験として振り返る。神さまの愛に出遭った経験であったと振り返る。それは信仰者に与えられている恵みであると思います。
人生のさまざまな体験を、言い表しえない信仰の経験として振り返り、神さまとのその豊かな交わりの恵みとしてあらためて思い返しながら、感謝したいと思います。

昨日は敬老の日ということで、守山で一人暮らす母を妻とともに訪ねました。守山に行く途中、野洲に古くからある和菓子屋さんに寄り、小さな和菓子を買って。母は相変わらず元気で、これは私の方が先に逝くことになるかな、と感じました。(笑)
今日は中秋の名月、そして久しぶりに満月ということです。昨夜は中秋・イブということで、夕食後、外に出て月を見上げました。昨日あせて買った月見団子を食することになるかと思うと楽しみです。

「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」(2コリント12・4)

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