静まりの時 2021年9月19日(日)
主キリストは、病のベッドの上でも、あるいは墓に葬られるときでさえもともにおられます。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、369頁f
今日の聖句(下記)は、まるでパウロが自らの死を願っているような言葉ですね。
新改訳2017で「よいと思っている」と訳されている言葉は、新共同訳では「望んでいる」と訳されています。この言葉は、たとえばローマ15・26に貧しい人たちのために援助をしたマケドニアとアカイアの人びとのことが記されていますが、そこで彼らが「喜んで援助をすることにした」と訳されているなかの「喜んで」と同じ言葉です。援助をした、ということですから、そこには献身があります。この喜びには献身があるのです。ですから「体を離れて、主のもとに住む」というのは、苦しみの現実から逃避して死を選ぶというのではなく、そこには献身や殉教ということが含まれていると理解すべきではないかと思います。
自殺(自死)と殉教との違いは、前者が限りなく自分を愛している、自分に執着している故の死であるのに対して、後者は、限りなく神さまへの愛による死である、ということですが、歴史上の殉教を見るとこの違いは現実的には微妙です。人間ですから混ざり合っています。
ですから私のような凡人は、ひたすら主を仰ぎ見て、今与えられている命を喜んで生きることがよいことでしょう。
今日は主の日。礼拝の日です。つながる方々の上に祝福がありますように。その場その場がよい礼拝の場、主に自らをささげる場となりますように。そうして始まる一週間が祝福に満ちたものとなりますように。
「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(2コリント5・8)