魂が健康であること

静まりの時 2021年9月15日(水)

時に肉体に痛みを覚えているときのほうが、健康を享受しているとき以上に魂が健康であることがあるのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、364頁f

このスポルジョンのデボーションテキストでは、今日で同じ聖句(下記)が掲げられて三日目となります。明日も同じ聖句となっていますので、この本の編者にとってはよほどこの聖句に心が留まったということでしょう。

ここに書かれている「魂の健康」とはいったい何でしょうか。魂の健康とはどういった状態をいうのでしょうか。肉体に痛みがあるということは、つらいことですからぜひ解決したいものですが、その痛みがむしろ魂の健康をもたらす場合がある、というのです。肉体の痛みによって生み出される魂の健康とはいったいなんでしょうか。

チェスタトンが次のような言葉をその著の中で語っています。

「健全な判断には、さまざまの手かせ足かせがつきまとう。しかし狂人の精神はそんなものにはお構いなしだから、それだけすばやく疾走できるのだ。ヒューマーの感覚とか、相手にたいするいたわりだとか、あるいは経験の無言の重みなどにわずらわされることがない。狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」

(G.K.チェスタトン、『正統とは何か』(新装版)、春秋社、1995年11月20日発行、23頁)

前後の文章を読まないとあまり意味が分かりにくいのですが、文意は、「共に生きる人、共同体、社会といったものへの理解や配慮、尊敬ということがないので、本人の中では完全に論理的であるけれども、そこにこそ人間の狂気があるということだと思います。魂が健康であるということは、自分の中でいくら論理が完結し、齟齬がなく、健康であると思い込んでいたとしても、周りの人とともに生きるという視点、そこでの想像力、理解、配慮、そのためには時に自分の主義主張を治める意志がないならば、それは魂に健康がない、魂が病んでいるということなのだ」ということでしょう。

肉体の痛みによって魂の健康が与えられる、ということは、そのように肉体の痛みによって、周りの人びとへの想像力や配慮、尊敬というものを身に着ける可能性をいただくということでしょう。

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119・71)

昨日はオンラインでの会議もあって、椅子に座っていることがおおく、雨も降っていたので、三千歩ほどしか歩くことになりませんでした。それで久しぶりですが、室内自転車に20分ほど乗りました。入院時に始まった心臓リハビリテーションの内容の一つにこの自転車こぎがありす。心臓リハビリテーションは退院後も続けなければなりません。病院によれば、通院も含めて半年ほど取り組むところもあるようですが、私の場合はとりあえず自宅にて、ということで頑張ることになっています。それで退院後、このエルゴメーターというそうですが、室内自転車を買ってもらいました。早速漕いだのですが、負荷が間違っていたのか、有酸素でできていなかったのか、かなりしんどくなってしまったので、それ以来利用していませんでした。利用するのが怖かったという感じです。しかしもう発症後8週間が立つわけですし、昨日は雨で散歩にも出られないということで、20分ほどですが、負荷を低くして漕ぎました。そのせいかわかりませんが、昨夜は夜中に起きる回数もぐっと減り、今朝はぐっすり寝たという「健康」な感じがしています。また変わるかもしれませんが。(笑)

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(2コリント4・17)