主がそこにもおられる

あなたが暗闇の中にいるとしても、心が沈んでいるとしても決して失望してはなりません。主がそこにもおられるからです。たとえ、あなたが悲惨な状態に陥っているとしても、あきらめてはなりません。なぜなら、父なる神の最も愛する御子が、それ以上に暗い闇の中を通られたからです。・・・高慢という華やかな住まいや、悪徳という不潔な隠れ場に、主イエス・キリストを見いだすことはできません。悲しみの人、主イエス(イザヤ53・3)とお会いすることができるのはむしろ喪中の家(伝道者7・4)においてです。罪を悔いる者が暗闇の中に座り、その罪を深く悲しむとき、この方は必ずそこにおられます。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、21頁f

2021年1月10日(日)

「高慢」や「悪徳」のところに主を見いだすことはできないと言います。主がおられないのか、というと、本当は主はどこにでもおられるのだと思いますが、高慢や悪徳の中にある者の眼は曇っているので、主を見いだすことができないのだと思います。ひとたびへりくだって罪を悔いるならば、暗闇の中にあっても、主を見いだすことができるのです。

「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。』」(出エジプト3・7)