石川県金沢市で開拓伝道をしたトマス・ウィン宣教師は主の日の礼拝に必ず徒歩で出席していたという。当時唯一とも言える交通手段であった馬を休ませるためであった。十戒の第四の戒めを誠実に受け止めていたのである。私たちは、この態度をただ古い時代のこととして忘れたり、軽んじたりしてよいであろうか。・・・キリスト者として日常生活をきちんと生きるためにこころを尽くしたい。だが、そのために大切なのは、主の日を聖別することである。ただ休めばよいというのでもない。むしろ、日本のプロテスタント教会の多くがそうしているように、日曜日に教会堂に集まり、礼拝に励むと共に、交わりを楽しみ、あるいは奉仕を共にする喜びもまた主の日の聖別のわざと言えるのではなかろうか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、341頁
2020年11月18日(水)
安息日は「休む」ということも大切ですが、「休ませる」ということも同様に大切なことです。労働である料理をしないためにレストランに行こう、というのは自分が休むためにレストランのスタッフを休ませようとしていないということでしょう。
また休むということが何もしないこととと考えてしまうことも、本来の安息日の過ごし方を見失ってしまうことではないかと思います。安息日を安息日としてしっかりと過ごすためには、礼拝をささげること、交わりを楽しむこと、奉仕を共にする喜びを確かにすることが、大切なことなのです。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト20・8-10)