これを祈ってさえいればよい

戸を閉めた部屋、何も見えない。そこでは施しをする右手を左手が知らないように、自分を見ながら祈ることはない。自分で自分の祈りを吟味する必要もない。祈れないとか、祈りの言葉が貧しいとかに心を奪われることもない。祈りについて思い煩う必要はない。もともと祈る必要もない。私たちの父である神は祈りに先立って既に何を本来必要なこととして祈り願うべきかを私たちよりも、よく知っておられる。それならなぜ祈る必要があるのか。そう言われたところで、「だから、こう祈りなさい」と言って、主は「主の祈り」を教えてくださった。何という恵みの宝であろう。毎日、これを祈ってさえいればよいのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、337頁

2020年11月14日(土)

信仰は委ねることですが、祈りも委ねることなのだと思います。あのこと、このことを神さまに一切合切お委ねするのです。そういう意味では祈らなければならない理由を私たちは持っています。

祈りにおいて委ねなければならない最大のものは自分自身なのだと思います。私たち罪びとは祈りにおいても自分が中心になってしまうものだからです。主の祈りを祈ってさえいればよい、とはなんという慰めなのでしょう。そういう意味では自由祈祷よりも定型の祈祷文による祈りは大切ではないかと思います。自由祈祷よりもかえって自由を私たちに与えれくれるように思います。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6・6-8)