パウロは、今からだをもって生きていることが、主の喜びという報いを受けることを確信している。そのように主ご自身によって生かされている。だからこそ、今すぐにでも主と共に住みたいのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、314頁
2020年10月23日(金)
最後の審判のとき、私たちはみな神さまの前に立たされ、それぞれの人生の行いに応じて審きを受ける、と聖書は語ります。罪びとである人間にとって、その審判は恐怖です。しかし「キリストの審きの座」であり、主にある者にとっては、報いの時であると、聖書は語ります。最後の審判が報いの時となったので、もう審判は恐怖でなくなりました。むしろ喜びの時、希望の時となりました。
「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(第二コリント5・9,10)