ひととしての惨めさを知り抜いた女性が、主イエスに愛され、その罪を赦され、悪鬼から解放され、その自由を献げて、ひたすら主を愛し、仕えて生きてきた。その姿に自分を重ね、一緒に涙し、喜び、マリアが主を仰ぐ姿を刻み、描き、それに自分たちの祈りを重ねた。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、284頁
2020年9月25日(金)
神さまに愛されることによって生まれた生きる力の強さ、美しさが、この「一人の罪深い女」の行動を記した聖書の個所にあますところなく記されています。
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7・37,38)