私たちが仲間と一緒に祈るなら必ず聴かれるという約束と、ふたりでも三人でも仲間と一緒に、キリストの名を掲げ、それを根拠に集まるなら、そこに主がいてくださるという約束を切り離してはならない。これはひとつのこと、そこに浮かび上がるのが、教会の姿である。・・・必ず聴かれると信じて何を祈っているのであろう。・・・罪とその赦しのために祈っている。罪を犯した兄弟のために祈っている。そこに祈りの共同体としての教会がある。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、276頁
2020年9月17日(木)
聖書の読み方ですが、聖句をひとつ取り上げて、自由に想像をめぐらしながら読み込んでいくということも、時に大切なのだと思いますが、一般的には「文脈」の中で読んでいくことが大切だと思います。ここでも主の名によって集うところには、わずかな人数であっても主がともにいてくださるという約束が語られていますが、それはその先に記されている天国の鍵のお話しと切り離してはいけない、ということです。切離さずに読むと「わずかな人数でも」ということよりも「複数」の集いが強調されていることが分かります。また祈りが聴かれるということも、罪の赦しに関してということが分かってきます。
このように文脈から読んでいくということで、聖書のメッセージがより深く、より正確に理解できるのですから、逆に一つの聖句を取り上げて自分勝手に理解していくということは、結局自分の思いや願いを読み込んでいくことになり、偶像を造り上げてしまうことになるでしょう。
さて教会の役割ですが、それは罪の赦しを語ることである、と言えるのだと思います。罪を犯さない人間はどこにもいません。礼拝において罪の赦しの宣言がなされます。兄弟姉妹の祈りの中で罪の赦しが祈られます。そこにこそ主がともにいてくださるのです。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・19,20)