旧東ドイツにあって信仰の節操を貫き、今はベルリン・ブランデンブルク教会の議長を務めるアンネリーゼ・カミンスキーさんが、壁崩壊後間もなく日本を訪れ、教会の戦いの報告をして、東ドイツ時代、ただ嘆きの祈りを献げるためにだけ集会をしたことがある、と語った。そして今は、ただ嘆くためだけに集まるということはなくなったのではないかとも問うた。そのために教会からいのちが涸れてきているように思っている。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、192頁
2020年6月29日(月)
信仰生活において「嘆く」といことは、一つのテーマである、ということでしょう。そして人生においても「嘆く」ということは大切なことである、ということでしょう。嘆くからには、その嘆きを聴いてくださる「他者」が必要でしょう。そしてその他者は嘆きを聴いてくださるとともに、それをご自身の嘆きとして下さる「人格」を持った存在でなければならないでしょう。そしてそれをしっかりと受け止めてくださる「全能者」でなければならないでしょう。そのような存在こそ、まことの神でありまことの人となられたイエスさまです。
「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。/わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。/叫び続けて疲れ、喉は涸れ/わたしの神を待ち望むあまり/目は衰えてしまいました。」(詩編69・2-4)