神の救いには筋道が通っている

教えが不健全になれば、信仰は病み、教会は崩れる。信じる者は、自分の信仰に一致する真理の知識をわきまえていなければならない。・・・私は牧師であったとき、教理の体得こそキリスト者の足腰を確かにすると言い、教理を説くことに一所懸命であった。・・・難しいことではない。神の救いには筋道が通っている。その筋道を人間の言葉で、できるだけきちんと語れるようになるのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、186頁

2020年6月23日(火)

新約聖書には、お涙頂戴のお話しも、わかりやすい説話も多くはありません。むしろ教理が説かれています。古代教父も、中世、宗教改革、カトリック改革に生きた牧師、伝道者、神学者たちも教理を説くことに懸命であった、と言います。教理なんかどうでもよい、感動的なお話しを聞きたい、神さまが生きて働いておられるような奇跡を見せてほしい、と人間はいいます。しかしそれでは信仰は病み、教会は崩れるのです。

神さまの救いの道筋を学ぶことは、そんなに難しいことではありません。また筋道が通っているので、学ぶことでこころが整理され、まるでストレッチ体操をした後のように、からだ全体が、気持ちよくはつらつとしてきます。

「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。」(テトス1・1)

009

去る日曜日、彦根・めぐみキリスト教会の礼拝でいただきました。ありがとうございます。