アブラハムを呼び、イサク、ヤコブの名を呼んだ神が、今私を呼んでくださった。それが私たちの信仰の基礎となる。神に名を呼ばれて初めて知るのは人間の偉大さである。自分がどれほど大きな値打ちを与えられているかということである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、152頁
2020年5月21日(木)
天と地を創造されたまことの神さまが、この私の名を呼んでくださった。そこに信仰の基礎があり、あらためて自分自身の価値を発見する、といいます。
新発見の昆虫が紹介される写真に、タバコの箱などと一緒に映されることによって、その大きさを明らかにしようとしていることがあります。昆虫だけを撮影していては、その大きさが分からないのです。同じように、自分を知るために、あるいは人間を知るために、人間だけを見ていては、その価値を知ることができないのです。
より正確な大きさをはかるためには、定規があるといいのでしょう。この定規のメモリが、時と場所によって変化するとすれば、その定規で計ろうとするものの大きさは、たいそういい加減なものとなります。やはり定規は普遍のもの、絶対的なものでなければなりません。
私を計る存在が、この普遍的なもの、絶対的なものでなければ、私というものの価値は分からないのです。
聖書の神さまは、この普遍性と絶対性を兼ね備えた存在であり、その神さまが、十字架と復活において、私たちへの愛を明らかにしてくださいました。この神さまにお出会いして、私たちは初めて自分自身の価値を知らされます。まさに「歓喜、歓喜、歓喜の涙」(パスカル)です。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイ22・32)